シルバーグレーが風に舞う


五月も下旬。からっとした晴天。
散髪日和だ。
半裸の父と、やる気満々の母を、ベランダに追いやり、私もサンダルをつっかける。



明日休みとったし、散髪行こうかなぁ、と父が言った。洗面所で、私と母が後ろから覗きこむ。伸びた襟足がくるりと尻尾を巻いていた。ふぅむ、そうやね。

「結婚したころは、幸っちゃんによう切ってもらっとったんよ」幸っちゃんとは母のことだ。

母の腕は身をもって知っている。風呂あがりの濡れた髪を、料理バサミでジョキッ、ジョキッ、とやる。大雑把だし躊躇がない。おいおい、そんな無計画に切るのかよ、と思いながらも生殺与奪の権を渡しているから身動きはとれない。

へぇ、父もジョキッとやられていたのか。

「ほんならさ、久しぶりに切ってもらったらええやん。うまく出来たら散髪代払ったりぃや」

ええなぁ、と父は乗り気だ。
その代わりアンタも手伝ってぇよ、と母。ええけど、私も凝り性で完璧主義なだけの不器用やで。
大雑把と不器用にハサミを握らせるなんて、ああ、怖い。


そんなこんなで、朝10時。
ベランダに椅子を出して、半裸の父を座らせる。
母の手にあるのは、いつもの黄緑の料理バサミだ。

湿らせた髪をといて、ふぅむ、と観察する母。それから耳の後ろのひと束を取って、ジョキン、と迷いなく切った。
マジで躊躇ねぇな。なにせ私にとっては他人事だ。その潔さが笑えてくる。

ジョキン、ジョキン、とやるたびに、私の持つゴミ箱に5センチほどの束が落ちる。
まあ、全体的に同じだけ切れば、少なくとも悲劇は起こらないか。
散髪って自宅でできるモンなんだな、と妙な感動をおぼえながら、父の背中についた短い毛をせっせと払いおとす。

しかしまぁ、ベランダというのは狭いものである。
左半分を終え、右側の側頭部にハサミを入れる母の、ヒジの角度よ。そんな壁ぎわで無理にやらなくても、椅子を回せばいいじゃないか。今にも耳を切り落としそうで見ていてハラハラする。ほら、ちょお、手ぇ止めて。な、こうやったらええやん。

ガラス窓にうつった母娘を、父はどこか嬉しそうに黙って見ている。



記憶にある限り、父の髪はずっと薄い。
私が幼いころの写真を見れば、今より黒々として髪も多少は多い父の姿がある。
けれど、毎日見ている実感としては、10年たってもあんまり量は変わってないんじゃないかと思う。アハ体験といっしょだ。1箇所がじわ〜っと変わっていくやつ。

父が毛を染めるのをやめてから、もう5年くらいはたっただろうか。見栄をはるのをやめたのか、白くなる自分を受け入れてひとつ老成したのか、それとも何か諦めたのか、23の私には父の心は読めない。

ただ、私はそのシルバーグレーの髪を気に入っているよ。


ゴミ箱に入りそびれた短い毛が、陽の光を受けてきらめきながら、マンションのベランダを飛び立つ。
ふわりふわりと軽やかに。

セピア色でしか思い描けないけど、私は、結婚当時の、40代の夫婦のすがたを想像する。

あの頃より、この散髪の時間はにぎやかだろうか。
あの頃よりも楽しいだろうか。
楽しかったらいいな、と思う。



右側の毛を切り終えた母が手をおろす。

いや、ちょ、切り過ぎやない?

左右を見比べて、母がうーんと唸る。

それから左の襟足をまたジョキンとやる。

あかんわコレ、永久機関や。私が見とかんと父がワカメちゃんカットになってまう。
明日職場で「すっきりしましたねぇ」なんて言われても、父は嬉しそうにしているのだろうが、そういう問題ではないのだよ。

父が髪をそろそろと触る。
なんかリクエストあったら言いや、とうながしても、父は「良い感じ」としか言わない。
まあ良い感じか悪い感じかでいったら良い感じなんだけど。


フリーダムな母に、私がたまに口を出して、大胆な手つきにげらげら笑って、それでもなんとか形になった。

刃の厚い料理バサミで襟足の短い毛を落とそうとする母を押しのけ、父の後ろに陣取る。
仕上げは任せろ。バリカンなんて怖くて使えないから、相棒は鼻毛バサミだけど。

チョキ、チョキ、一本ずつつまんで、根本で切る。
「皮膚切ってもうたら私が千円払うわ」
そう宣言した矢先に挟んでしまった。はは、失敬失敬。何事もなかったように散髪を続ける。
母に比べたらチマチマした手つきだけど、確実にチョンチョロリンの毛はなくなっていく。ふふん、どうだ。けど腰痛持ちには向かない職種だ。


さいごに、肩に落ちた毛をぱっぱっと払って、本日の散髪式は終了。
これなら三千円やな、との評価を頂戴した。

いつもはもっと短いんじゃない、と母は首をひねっているけど、まあ、伸びたらまた二人で切ってあげようよ。

いそいそと洗面所に向かう父の、シルバーグレーの髪が、いつか真っ白になっても。
何度だってこの晴れた日を再現してあげようと思う。

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