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曲から学んだ生死観(Mrs GREEN APPLE/ Soranji)

どうもみなさんこんにちは。ミセスの新曲「ライラック」が楽しみすぎる、ハルキングです。普段はこのアカウントでは、Web3について投稿をしていましたが、僕の好きなアーティスト(Mrs. GREEN APPLE)について語りたいと思います。
この記事は僕が運営しているオンラインコミュニティ「ミセス考察部」で以前にアップした物です。(匿名で無料で参加できます)
興味ある方は、ちょっと覗いてみてください。

「ミセス考察部」

【はるきんぐのSoranji語り】

実は僕がこんな感じでミセスについて、曲について思い綴るのはこれが初めてです。(口で喋って語ることはあったんですけど)文字にしてみるのは、初めてなので、うまく書けるか、、、、

「世間の人が、Mrs. GREEN APPLEをどのようにみているのか?」最近よく考えることがあります。なぜなら、ミセスがPhase2を開幕して以来、ものすごい勢いで人気になり、メディアでの露出が増えてきたからです。ファンクラブにも入り、大森さんのインスタでも逐一、情報を得ている僕(追いかけてる人間)からすると、世間との認識にあまりにも差があると思います。おそらく世間のミセスに対するイメージは「ポップ」「華やか」「青春」みたいなものだと思います。ただ、ミセスの魅力はそういった「明るい曲」に隠れた「ダークな曲」にあると思い、ミセスの楽曲を楽しんでいます。

そんなミセスの楽曲(大森元貴が作る曲)の中には、死生観について謳われている曲がいくつかあります。「メメントモリ」は大好きな曲のうちの一つです。「PARTY」に関しては、あんなにも明るい曲調なのに、歌っている内容はとても、核心的で、人生を「いつか終わってしまう楽しい時間」のように表現してて、パーティーを楽しめというメッセージが感じられて、最近のお気に入りです。そして「死生観」について語ると、避けて通れない一曲があります。

Soranjiです。

お待たせしました。いよいよ本題です。

この曲がリリースされた当時僕は、オーストラリアに留学中でリリースされた日から毎日聞いていました。SoranjiのMVでは雪が降っていて、日本の気温がちょうど寒くなり始めた頃だったと思います。一方その頃、オーストラリアは夏です。気温が35℃ぐらい中、帰り道で歩きながら毎日Soranji聴きながら帰っていました。リリース当初、ミセスの新曲として純粋に楽しんできていましたが、「ラーゲリより愛を込めて」の映画を見てから曲の捉え方が変わりました。

前提として、「希望を持って信じていれば、きっと生還する」という歌ではないと思います。これは「ラーゲリより愛を込めて」の映画からもわかるように「生還するかわからないけど、信じて待ち続ける人間の尊さ」を謳っている曲だと思います。作曲家:大森元貴の特性からもわかるように「信じてほしい」「生きてほしい」というメッセージは単純な意味ではなく、特有の生死観に基づき書かれた言葉のように思えてきました。

「だから生きて生きててほしい」

「この曲で伝えたいメッセージ」は何なのか?考えてみました。決して「死」に対して否定的ではなく、確実に死に向かって生きている中で、必死に生きようとする様を歌っていると思います。「だから生きて生きててほしい」という歌詞が印象的で、前向きなメッセージが隠れていると聞いていて感じました。タイトルの「Soranji」は日本語の「誦んじる」に由来していて、さっきの歌詞からは「自分はもう死んでしまったけど、故人に頑張って生きてほしい」というメッセージが伝わってきました。

曲を通して歌っている内容っていうのは決して明るくなく、「死」について歌っている曲です。しかし、「だから生きて生きててほしい」という歌詞は僕の中で元気づけてくれるフレーズでもあります。もっと長く生きたくても死んでしまう人もいるし、生まれた国が豊かではなかったばっかりに命を落とす子供も世の中にはたくさんいます。なので、「だから生きて生きててほしい」は肯定的な意味として受け取っていいのかなと思います。この歌詞を聞いて「もうちょっと頑張ってみよ」と自分をよく鼓舞します。

「リズムやメロディの解釈」

リズムやメロディから「噛み締めてる感」がとても感じられます。ラストのサビでの、スネアのリズムは兵隊の行進(マーチ)を感じることができます。でも、それはパレードのような晴れ舞台で演奏されるようなマーチとは違い、過酷な環境下でも使命として必死になんとか行進しているような感じです。
1番や2番のの伴奏のリズムも1拍ずつ音が動き、一曲の音楽が流れているというよりかは、一拍に込められたメッセージが連なって曲ができている感じがします。

「死生観」

死に対して肯定的でも否定的でもなく、今生きているという事実があるということに曲を聞いているときに気づきました。人は生まれた瞬間に「死」に向かって生きていきます。「重なるはアイロニー」はまさにそんな人生に対する「皮肉」の意味で「生死に対する矛盾」を表現しているのだと思います。
人間には「痛み」があり、「辛いという感情」これらが「不のもの」と思うのはきっと「死」に近いものだからだと思います。

でもそういう辛いことや、劣等感、弱さみたいなものは誰にでもあって、それが何より生きている証拠だと大森さんは言いたいのではないかな?

って感じです。

こんな感じで一曲について語ってみるのも、なかなか面白いですね。「ケセラセラ」についても書きたくなってきました笑

もちろん、ここに書いた内容っていうのは曲を普段から聴いてて感じたこともあるのですが、この「語り記事」を書くために「Soranji」を聴いてて気づいたこともあります。本当に何回も聞いたし、ミセスの曲の中でもかなり好きな一曲なんですけど、改めて向き合ういい機会になりました。


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