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これから読む、山尾悠子

山尾悠子の作品は読んだことがありませんでした。
しかし先日、『新潮』2021年3月号の日記リレー特集で大トリ蓮實重彦の日記に山尾悠子の『飛ぶ孔雀』に触れた部分があり、引っかかったことがきっかけです。ちょうどTwitterでもご本にがそのことについてツイートしておりましたので、Twitterらしく気軽に返信してみたところご本人は「変な小説なのですが、よろしければ是非」と返信をいただきました。ずいぶん謙遜されますね。

すぐには読み始めることがないまま数日が過ぎたころ、書店で『夜想』山尾悠子 特集号の発売を見つけ、開いてみるとなんと執筆陣が豪華!すぐに買いました(金井美恵子の名があるとすぐに買ってしまいます)。

もともと評論から好きになる本もたくさんありましたので、楽しみに『夜想』を開いて読み始めるとこれは、驚きでした。そこに書いている人ほとんどが、山尾悠子の文学にはじめて触れたときの衝撃や驚きをやや興奮気味に書いているからです。

評論は他の作品との比較や分析が主となっており、あまり感情的に書かれない気がしますが、ともすれば感情的になってしまうほどの思いがあると理屈抜きで惹かれ、読みたくなります。また、評者たちが山尾悠子の文学の周辺にあると挙げている作品は、僕の好きなものがほとんどでしたから余計に読みたい気持ちは高まりました。

ミシェル・ビュトール、クロード・シモン、マルグリット・ユルスナール、ジュリアン・グラッグなどの作品について誰とも語り合う機会はないまま、なんとなく薄っすらと見える道を歩いてきた気がします。それらを読んでいる人が存在しているのはわかっていましたが、「クロード・シモン難しくて読めないね」とか素直に話せる友人とは程遠い、マウントを取り合うことが想像できて、専門的な文筆家でもないくせに群れて文学を語り合うのもなんだか違うなあ、と思っていました。その感情についても、ほとんどハッとするような山尾悠子の一言を拾うことができました。 

「女の友達が欲しい。対等な立場で創作の話ができて、ついでにパルコのバーゲンに付き合ってくれるような友達が」

口に出して言うのが憚られるほどの素直な思いの言葉を実際に聞いたことがありません。文学について語り合うなら、パルコのバーゲンに付き合ってくれることは求めてはいけないような気がしていました。なぜかはわかりません。だから、この思いは当時の孤独だった頃を思い出しました。

また、『夜想』で書き手の何人かが同じ一文について触れていました。山尾悠子集成の帯にこの言葉が書かれていて、この言葉が有名だそうです。このままこの道を進めばいい、と言われているようだったと書いている人もいます。わたしもふせんに書いて仕事中にPCのモニターに貼りました。

誰かが私に言ったのだ
世界は言葉でできていると
太陽と月と欄干と回廊
昨夜奈落に身を投げたあの男は
言葉の世界に墜ちて死んだ、と

これから、山尾悠子を読むのがたのしみです。

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