内田樹「だからあれほど言ったのに」を読んで (後編)
第四章に、内田氏の旧友である平川氏の言葉として《人生は解決できない問題を抱えながら生きていくものである(要約)》とある。
本書の後半は哲学的になってきて、宗教が必要な理由や礼節の重要性などを説明している。
私はどちらかというと宗教を否定しているのだけれど、内田氏の文章をを読むうちに、人間の生活において、自己を高める礼節、作法と切っても切れないものと考えるようになった。
しかし、近年の宗教を「宗教」と括って良いものとは思えないし、ましてや、内田氏のいう宗教はもっと「個人の内なる精神のもの」であると思う。
その「個人の内なる精神のもの」は組織的な宗教ではなく、日本の古来から受け継がれた「敬う」という作法に根ざしている・・と本書を読み、理解している。
同じ章に「学ぶ」ことについても書かれている。
学ぶための師は「この人と決める必要はなく、一人である必要もない」
これは私も若い頃から努めていることで、「その道の先輩は年齢などは関係なく敬う存在で、その人から学ぶことは数多くある」と思っている。
だから、相手が子供であっても、はるか年上の人であっても、わからないことがあれば聞くし、尊敬する。
だけどその人の人間性によって好き嫌いはありますが・・
終盤には「図書館は自分の無知を知らしめるため」ということについて書かれている。
冒頭にあるこのような言葉を読んで、どういうことかまったく理解できなかったが、読み進むうちに「なるほど、そういうことか、たしかにそうだ」と腹落ちした。
詳しくは本書を読んでほしい。
本書を通して心に残ることは、礼節、作法、慎ましさ、礼儀正しさ、敬い・・など日本人であるがゆえに理解しやすいけれど、奥が深く、自身に照らし合わせて、70歳過ぎてもまだまだ未熟であり、襟を正して精進しなくてはならないということだ。
おわり
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