私は、彼女が嫌いだった
私がまだ独身だった頃の、数年前の話。
田舎の母と電話をしていた時の事だ。結婚式相談等をしていると、ふと母がこんな事を言いだした。
「そうそう、そう言えばこの間、偶然Aちゃんのお母さんと会ってね。覚えてる? 小学校の時に同級生だった女の子……」
Aちゃん。
ぎくり、とした。
勿論、覚えていた。
私は、彼女が嫌いだった。
彼女は、勉強ができなかった。
「HALさん、Aちゃんに九九を教えてあげてくれる?」
小学校2年生の時、算数の時間に、担任の先生にそう頼まれた。
九九を暗記して、先生の前で暗唱する、というテストがあったのだ。
しかし彼女は、九九を少しも覚えていなかった。
私が一番に合格してしまったから、先生にそう言われたのだと思う。
私はそれを承諾した。
勿論、その日のうちに覚えることなんて不可能だったから、それから毎日、放課後に特訓をした。
読み方の法則、覚え方、何度も何度も繰り返し。
どのくらいだったかは思い出せないが、長く時間をかけ、彼女はようやくテストに合格することができた。
教えていたその間も、合格した後も、彼女は私に、一度もお礼を言わなかった。
プライドがあったのかもしれない。
教えられる事が腹立たしかったのかもしれない。
そして、幼かったからかもしれない。
しかし、私は、お礼も言えないような子は、嫌いだった。
そんな彼女は、いじめられていた。
最初は頭の悪さを馬鹿にする程度だっただろうか。
そのうち「不潔」「ばっちい」「ばいきん」「近寄るな」とエスカレートし、クラス中の誰もが、彼女に触らなくなった。
彼女の持ち物すら「きたない!」と言い、掃除の時に机を動かす事すらみんなが嫌がるようになった。
そんないじめが、普通に行われていた時代だった。
体育の時間だ。
ペアを組んで、体操をしなくてはいけない。
彼女と組みたがる人は誰もいなかった。
彼女が話しかけようとすると、声をあげて逃げ出し、他の子とペアを組む。
見かねた先生が、こう言う。
「HALさん、Aちゃんと組んであげて」
「はい」
いつでも私は、先生の便利屋扱いだ。
私は彼女と体操をした。
クラスメイトの好奇の視線が突き刺さる。
勿論彼女は、お礼なんて、言わなかった。
ある日、また彼女はいじめられていた。
「きたねえなあ」
「近寄るなよ」
「ふけつー」
席に座る彼女の周りで、5人の男子がはやし立てていた。
彼女は、俯いていた。
その周りで、クラスメイトたちは「またか」と言いたげに、しかしそれを疎んじる様子もなく、にやにやとその様子を眺めている。
毎日だ。
飽きる事もなく、毎日。
彼女は俯いていた。
私の目の前の席だ。
細い体、丸まった背中。
一声も発さない。
私は、彼女が嫌いだった。
男子の一人が机を蹴飛ばした。
重い木の机が、がたんと倒れ、中から教科書と筆記用具が散らばった。「うわー、さわっちまった、きったねー!」
蹴飛ばした足を他の男子になすりつけようとし、周囲のみんなが悲鳴をあげて逃げ出した。
机が倒れても、彼女は椅子から立ち上がる事もできず、ただそこに座っていた。
私は席を立った。
そして、倒れた机を、起こした。
周囲から悲鳴が上がった。
散らばった教科書を荒っぽく机の中にしまい、ばらばらになった筆箱の中身をしゃがんで拾った。斜め前の席の子の前の足下に転がった鉛筆を拾おうと手を伸ばすと、その女の子は慌てて数歩後ろに下がった。
筆箱と筆箱の中身を机の上に置くと、私は彼らをさっと一瞥した。
彼らは怯えたように、私を遠巻きに見ていた。
私は、彼女が嫌いだった。
だが、彼らのやり口は、それ以上に大嫌いだった。
私は、怒っていた。
とても、怒っていたのだ。
私は彼らをただ睨みつけ、そして、教室の出口へ向かった。
私の周りから人が離れる。
なるほど、彼女はいつもこんな景色の中で過ごしていたのか。
変な感心をしながら、私は教室から出た。
覚悟していたいじめの矛先は、私には向かなかった。
そして、彼女のいじめも、なくならなかった。
ただ、その後も時々私の怒りが爆発する度、私は彼女に触れ、彼女と話した。
時に私は悪態をつかれたが、意に介さなかった。
いじめが少し大人しくなった頃、クラス替えがあった。
クラスがかわってからはどうなったのか知らない。
ただ、隣のクラスから「不潔」という声が聞こえてきたことはなかった。
その間も、その後も、彼女は私にお礼を言う事はなかった。
私も、お礼を言われるような事はしていなかった。
ただ私は怒っていて、そして、彼女の事が嫌いだったからだ。
「……それでね、Aちゃんのお母さんが私に言うのよ」
母の声で、はっと我に返った。一体何を言われたのか、と身構えた。
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