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この秋行き来したこと。

10月23日

noteで通訳として参加していた『今は昔、かぐやのミッション』について書いていたら頭が爆発しそうになったので代わりに日記を書くことにする。

そもそも、かぐや姫が好きすぎて、書き出すと多くの言いたいことや最近の発見、幼い頃から考えていたことがコバンザメみたいにくっついてきて要旨を得ない。

だけど、この9月10月はそのからみ合い方が自分にとってよかったと思うので、ざっくりとでもまとめて置こうとおもう。

まず、身体と主体について。
演劇版『五体満足なのに不自由な身体』は出て来る女性は全て同一の女性であり、その彼女の内側をめぐる旅だった。
全ての登場人物はある女性の一面(複数の人格を有していても)や、ある一定の時期(子ども時代など)を担当しながらも同じ一人の女性だった。

舞台『今は昔、かぐやのミッション』では「ストーリーテリング・シアター」という技法で、役ではない俳優自身が観客にテキストを語り、コロスとして他の人と同時に語りかけたり、
特定の役から役へ(あるときは時空そのものになる)主体を移しながら常に観客との対話であるという意識を持って創作されていた。

二つの稽古場を行き来しながら、人の身体と変化する「私」という範囲の大きさ、ゆるさ、深さについてびっくりした。
そしてどれだけスピーディーに主体が変化しても、観客は混乱せずにその変容についてこられるということにも。

自分自身が一つにまとまってないような、体の中に自分が収まってない気がすることがあるのものもしょうがないな、と思う。

それくらい「自分」って謎で、曖昧で、いろんなものの影響を受け続けている存在なんだ。

そして言葉について。
通訳として入っていたため、『今は昔、〜』の現場では英語、古典である原文、現代の日本がが相互に行き来し続ける時間だった。

情報的には同じなのに言語のもつ性格のギャップに本当にびっくりした。

イスラエル人の演出家のルティさんに渡された
ドナルド・キーン氏の英語翻訳は素晴らしく、文章としても美しく英語話者にとってとても明確で文化的に理解がなくても進められるようになっていて、
この明確さは通訳であるわたしにとって古典の原文と英語のもつ言語としての性格の差を痛感させるものだった。

現代の日本語以上に古典の一語の含む意味は大きく雄弁で、主語もまた多くの文では明記されない。

一単語ずつで俳優が何をいっているか伝えることを求められることが多かったけれど
最後まで聞いても主語が出てこないことや、さらには目的語もなかったり、ルティさんにとってこの言語体系は慣れるまでさぞかし不可解だったと思う。

特に和歌は、掛詞に枕詞に、まさに「いとをかし」なレトリック満載で、
そういう背後にある情報は一旦置いて、
明確な意味だけ伝えるとなんだか本当にただの言付けっぽくて「味気ないなあ」と思ったりした。

瞬時にそのすべてを説明することができない自分の英語力にがっくりしながら、
改めて言語そのものが持つ性格についても日々驚いていた。

そんなわけでこの季節、
「わたし」は
役者であり、「演じている役」であり、またその役自身の持つ複数の人格や特性を行き来し、
通訳として人の言葉を自分の言葉として届け、日本語で、英語でつなぎ、古典について考えていた。

本当はもっともっとたくさん分かれるだろうけど、
同時期にこんなにどんどんそれぞれの役割に課題が出て、どの自分が取り組んでいるのか明確だったことも今までなかったし、作品の内容からも「私」ということや「身体」について考え続けていたし、何より傍目には全部同じ稲松遥の「身体」に起こっている、ということが大きな発見だった。

だから振り返ると通り過ぎた膨大な情報とそれぞれ違う負荷をかけてくれた課題は全て表現者としてありがたかったなあと思う。

たくさんの新しい出会いがあった。
人ひとりが内包する情報や感情や経験はとんでもなく多くて果てがない。
もうこの人のことがわかったと思うことは役者として避けたいし、何より面白くないと思う。

「裏を返せば、わたしってすでに面白いのでは?わたしがまだ知らないだけで」って初めて思えた。
それがうれしい。
でもまたきっと「わたしはとんでもないダメ人間だ。」ってめそめそする。

どちらもわたしで、そういう自分を行き来する。

だからとにかく、この秋はよかったんだ。


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