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映画会レポ①『ハーヴェイ・ミルク』

はじめに

2021年度後期の企画として、「多様性」をテーマにした映画会を実施しました。一つ目の映画は『ハーヴェイ・ミルク』です。サンフランシスコの市政に携わりながら、ゲイをはじめとするマイノリティの差別撤廃のために活動していたハーヴェイ・ミルクが、市長もろとも暗殺されるという痛ましい事件をドキュメンタリーに落とし込んだ映像作品です。

実際の事件を取り扱っているのもあって、他作品よりずっと実感を持ってゲイ当事者、マイノリティ当事者の権利について考えることができました。今回はこの映画を上映した後に、グループのメンバーで話し合ったことを記事にしたいと思います。

カミングアウトのメリット、デメリット

ミルクはカミングアウトを推奨していましたが、実際やるとしたらどんなメリット・デメリットがあるのかというところをまず話しました。

メリットとしては、「シスジェンダーの異性愛者を装わなくていい」「ありのままでいい」というところでしょうか。自分を隠さず生きられるというのはそれだけで心の負担が軽くなると思います。また、セクシュアルマイノリティの当事者が周りにいた場合、その人に仲間がいることを伝えられるでしょう。

しかし、LGBT平等法とか差別禁止する法すら通らない日本の現状を考えると、そのハードルはお世辞にも低いとは言えません。カミングアウトしたら勘当された、異動になった、不採用になった、という話も依然として聞こえてきます。私たちも「多様性」を冠するグループとして、少しでもカミングアウトしやすい(黙らざるを得ないのではなく選択肢の一つとしてクローゼットを選べる)、キャンパスを作っていきたいと強く思いました。

マジョリティの権限が強すぎる問題

ミルク派とホワイト派(マイノリティがマジョリティと同等の権利を得ることに反対する人々)が対談する場面において、ホワイト派の言い分に無理がありすぎるにも関わらず押し通せていたところにもやっとしてしまったので、そのことについて話しました。

明らかにマイノリティ側の方が正論なのに、マジョリティだからそれを無視して色々断行できてしまうこの現象は一体なんなのでしょうか…。選択的夫婦別姓もそうですが、あまりにもマジョリティの権限が強すぎるように思います。

この背景にはやはり、当事者の視点を汲み取るべきところで蔑ろにしている案件があるのではないでしょうか。実際に映画でも、ミルク殺害事件の裁判で陪審員にマイノリティ当事者はいませんでした。「相手がゲイなら殺しても仕方ない」という言語道断な差別が、マジョリティの権限によって正当化されていたように思います。

また、先に述べた夫婦別姓のみならず性犯罪などでも、裁判官がマジョリティとして特権を持つ人ばかりで、当事者や被害者の視点が蔑ろにされることがあるのもこの派生でしょう。先日行われた最高裁判所裁判官の国民審査の重要性を強く実感しました。

またホワイト派を擁護する声のうちに「きっとよっぽど辛いことがあったのだろう」と同情するものが見受けられましたが、全く同意できませんでした。性犯罪者への擁護でもありがちですが、何があろうとどんな背景があろうと殺人や性犯罪が許されるわけがないです。日頃のストレス等が原因だとしたら、尚更なんで無関係な人間を標的にしたのか理解できません。ストレスの元凶じゃなくて、弱者側に怒りの矛先を向けるというのはかなり歪んでいるのではないでしょうか。

「マイノリティ」「多様性」が流行り物として扱われる風潮

この映画から派生して、最近『マイノリティ』とか『多様性』が流行り物として扱われる傾向があるのではないかということについて話しました。

「最近(当事者が)増えたよね〜」と言われますが、平成でも昭和でもぞれ以前でもマイノリティ当事者というのは存在していて、最近になってようやく少しずつカムアウトできる雰囲気ができてきたというのが実際ではないでしょうか。言葉や考えが浸透していくのは嬉しいですが、一過性の流行り物のように扱うのは不誠実な気がします。

「マイノリティ」って言い過ぎ?

また、最近マイノリティという言葉がよく巷に飛び交うようになったせいで、ワード自体で忌避されてるような印象を受けるという話もしました。

しかしだからと言ってマイノリティという言葉を差し控える必要はなく、マイノリティと言ってもなんのわだかまりも生じない社会を作っていくべきではないかと思いました。ゆくゆくは『マイノリティ』を「数が少ない」というだけの言葉にしたいです。

流派なのか?

マイノリティの権利に関して「賛成派」「反対派」ということがありますが、なんだか少し違和感を覚えるという話を共有しました。

例えば、『同性婚に賛成?反対?』というのも、ものすごくマジョリティ目線すぎるのではないかと思います。同性婚が認められても認められなくても普段の生活に何の影響もないマジョリティが決めることではないし、もっと当事者の声や視点を取り入れてほしいです。
 
また『選択的夫婦別姓』は、『絶対的夫婦同姓』である現状と対になっていることを鑑みると、明らかに前者の方が正当性があると思います。同性婚も「異性婚のみ」と「異性婚と同性婚」の対立と考えれば同じことが言えます。「選択的夫婦別姓や同性婚はわがまま」と言う人もいますが、どう考えても現状維持派の方が排他的ではないでしょうか。このような非対称性が可視化されてない点でも、「賛成派」「反対派」という表現には違和感を覚えます。選択肢があること大事です。

BLについて

かなり昔のドキュメンタリーを見た上で、最近増加の一途をたどっているBL作品について話しました。ドラマなどでも扱われるようになったのは大変喜ばしいですが、もやもやしてしまう点も少しあります。

まず、消費者にも製作側にも男性同士の恋愛の見たいところだけ見るような人が一部いるのではないかと思います。前者でいえば「BLは好きだけどゲイは無理」が顕著でしょうか。また後者については、BL作品をやるだけやって、実際のマイノリティの権利には一切無頓着なケースが象徴的です。タイBLなどでは、キャストの方がプライドパレードに参加したり、団体に寄付したりしていますが、日本だとそのような活動はほとんど見受けられません。「クィアベイティング」という言葉もありますから、創作物の影響力を利用して、どんどん社会の意識変えていってほしいです。

またさらに言えば、殊更に「儚い」「禁断」と強調された作品が一定数見受けられるのもモヤついてしまいます。成就したらしたで「性別なんて関係ない」みたいなマーケティングをされて、同性愛が透明化されるのも気になります。

「性別なんて関係ない」というのは真理ではあるのですが、同性愛に関してばかり使うのは、あまり良くないのではないでしょうか。「純粋な愛を求めた結果、たまたま同性愛になっちゃったんだよね?本当は”ノーマル”で異性を好きになるんだけど特例として好きになっちゃったんだよね?なら仕方ない、いいよ〜」というようなニュアンスを感じます。

同性愛者同士よりも、異性愛者が同性愛者と恋に落ちる物語の方が多い点を見ても、やはりまだまだマジョリティのためのものという印象が強いです。

高校の時はマイノリティについて学ぶ機会がなかった

振り返ると、高校生の時にマイノリティの権利について学んだり、考えたりする機会はあまりありませんでした。大学の授業やハロハロの活動を通し色々と社会の見方が変わってきました。

歴史の偉人が男性ばかりなのは、「History」が「His story」であるように全て男性中心で回ってきたためであることを教えてくれていたら、「思春期になると人は異性に興味をもちはじめます」と保健の教科書に刷り込まれずに済んでいたら、もっとマイノリティでも生きやすい社会に近づくのではないかと思います。学校こそ公的機関として自覚を持って、マイノリティについて学ぶ機会を与えてほしいです。

相手の立場を想像する

ここまで話してきて改めて実感したのは、相手の立場を想像するということがどれだけ大切かということです。映画にもミルク派と関わったことで同性愛者に対する偏見をなくすことができたという人が出てきましたが、結局差別をする側に知識や想像力がないだけという事例は多くあるのではないでしょうか。

このような歩み寄りを「めんどくさい」と思う方もいますが、確かに自分の偏見を顧みるというのは体力のいることですが、偏見や差別を向けられる側に立てばそのようなことは言えないと思います。自分もマイノリティの面があると自覚して、自分がやられたらどう思うか考えるといいのではないでしょうか。日本に生きる人も多くが人種的にはマイノリティですし、「黄色人種は教師になってはいけません」などと不当に権利を侵害されて納得できるのか、胸に手を当てて一人一人が考える必要があると思います。

変えていきたいけど勇気がいる

しかし、このような事件を二度と起こさないために、社会の差別や偏見を無くしていきたい!とは常々思っているのですが、いざ実行に移そうと思うと少しハードルの高い部分があるのも事実です…。

ふとした時に隣人から偏見を投げられた時に、はっきり指摘できるかと言われると難しいです…。その発言以外は気さくな優しい人であったりするとなお言いづらいですし、めんどくさい人みたいに扱われてろくに話聞いてもらえないかもと不安になります。

しかし私たちはできるだけ指摘できるように努力する必要があると思いますし、指摘された側も改め直す覚悟を身につける必要があるのではないかと感じます。間違いを指摘されると自分の非を認めたくなくて突っぱねてしまう、という気持ちもわかりますが、だからと言って偏見を無くさない理由にはなりません。繰り返しになりますが、相手の気持ちを想像して欲しいです。

おわりに

久しぶりにガッツリ意見交換やもやもや共有ができてよかったです。少しずつでも、マイノリティが生きやすい社会になるよう、私たちも精一杯活動していきたいです!

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