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「狗」Ch.3 by Priest(翻訳)

「狗」 第3章

 その男は、36か7歳ぐらいに見えた。髪や爪には清潔感があり、服もちゃんとサイズの合ったものを身につけている。もちろんシャツにはアイロンがかかっていて、家の中もきちんと整理整頓されている。その横に黎永皓が話していた精神科医が座っている。

 「どうぞおかけください」
 男は陸翊と黎永皓に言った。

 「お茶をどうぞ。ああ、紹介するのを忘れていました、こちらは王先生です」

 男は、温かくも冷たくもなく、まるで緻密に計算されたような、適当な微笑みを浮かべている。

 陸翊は部屋全体を見回してみた。部屋にはほとんど装飾的なものがなく、床は整然とした白と黒のタイル、四角いテーブルに四角いソファ、四角いコーヒーテーブルがあり、四角いチェックのテーブルクロスがかかっていた。時計も壁にある掛け時計も真四角だ。

 テーブルと椅子は特注品のようで、四本の脚が床の継ぎ目にきっちり合わせて固定されている。テーブルの上のコースターも正方形で、そのテーブルクロスの柄にちょうど合わさるように繕い直した痕がある。

 こんな風なので、その場にいた人たちの丸い頭が異様に目立っている。
 陸翊はつい「なんで人間の頭はこんなに不規則なんだろう?」と思ってしまった。

 「ああ、お構いなく」
 黎永皓は茶を断った。
 「少し聞きたいことがありまして。それが済んだらすぐに帰りますんで、どうぞおかけください――あなたのお名前は『秦』であってますね?」
 「秦昭です」
 男は淡々と答えたが、その視線は自分のコースターに釘付けになっている陸翊に注がれている。
 「私は遺産相続しましてね、いまはフリーランスでやってます。ところで、この方は警察官ではないと思うのですが?」

 陸翊は手に持っていたコースターをテーブルに戻した。もちろんテーブルクロスの柄にピッタリと合わせるように。
 「教師をしています」
 秦昭は言った。
 「ああ、職業を訊いたわけではなくて……」
 陸翊は秦昭をじいっと見て、それからまたぼんやりしていたが、黎永皓の目配せで我に返ると、またふらふらと言った。
 「心理学です」

 巷の噂では、陸先生のようなトリッキーな教師が、毎年期末に学生から不評を被らないのは、試験ではテキストや参考文献の持ち込みが許され、また落第率を無視して全員合格とするからだそうだ。

 秦昭は陸翊の専攻を聞くとすぐに前のめりになった。
 「へえ、どちらの学派ですか?私はちょっと興味がありましてね。専門文献を読み漁ってますが、特に華……」(※)

 「僕のことはさておき」と陸翊は遮り、「黎隊長の質問にお答えください」と言った。

 秦昭は話を止め、陸翊が置き直したコースターへと視線を落とし、空気を読んで頷いた。

 「ああ、申し訳ない。ちょっと興奮してしまいました。今日はまだ薬を飲んでなくて。薬を飲む前は時々こうなってしまうんです。気にしないでください」

 「今日の出来事をもう一度お聞きしたいんですが」
 黎永皓は乾いた声で咳払いをしながら、秦昭の視線を捉えようとした。
 「もう少し具体的に説明してくれますか?見落としがないか確認したくて」

 秦昭はなぜか陸翊にいやに関心を示している。まるで窓辺の綺麗なおもちゃに惹きつけられる子どものように、黎隊長の質問を聞き流すほど意識は陸翊に集中していた。

 黎永皓が再び呼びかけ、王医師が横から促すと、秦昭は渋々陸翊から視線を引き離し、礼儀正しく耳を傾けることにした。

 「ええと、何でしたっけ?」

 黎永皓はもう一度繰り返すハメになった。
 「今日の出来事をもう一度説明してくれますか」

 「ああ」
 秦昭は一瞬考えて自分の腕時計に目を向けた。
 「では、時系列で話しましょう。その方がはっきりする」
 「ええ、では」黎永皓はノートを取り出した。

 「今日の午後1時30分30秒、王先生が私の『箱』に来ました。私はそのときちょうど先生のためのお茶と点心を用意していました」

 ふらふらと彷徨う幽霊のように座っていた陸翊はこの一文を聞いて急に「生き返った」ように、皺だらけのウインドブレーカーから手のひらサイズのメモ帳を、シャツのポケットからペンを取り出し、その目には異様な集中力が表れていた。
 「箱とは、ご自身の庭のことですか?」

 陸翊の質問に隣の王医師が代わりに答えた。
 「患者は軽い妄想症状があり、サイエンスで提起された思考実験に夢中になっています。彼の言うところによると、すべての人は箱に入った脳で、人そのものは存在しないと」

 「ちょっと」

 秦昭が割って入った。
 「私は妄想患者ではありません。王先生に診てもらっているのは、不眠と神経衰弱です。私が『箱』と言うのは、例えです。私たち一人ひとりは確かに箱に詰め込まれた脳です。脳の適切な部分を刺激することで、現実の世界にいるような錯覚を覚えるんです。だからあなたの思考はプログラミングされているんです。『Matrix』はご覧になりましたか?あの映画は真実ですが、残念ながら誰も信じない。人々は仮想現実世界での生活を諦めず、論理的な科学推論を空想として扱うことを……」

 スイッチが入ったかのように独白する患者を見て、王医師はため息をついて陸翊の方を見た。
 「ほらね」

 陸翊が尋ねた。
 「他にどんな症状が?」

 「被害妄想ですね」王医師が肩をすくめた。
 「自分が『世界の秘密』を知っているから誰かに監視されていると思い込んでいるんです。それで毎日を規則正しく過ごすことを強要し、プログラミングによって『敵』の疑いを払拭するんだと。ほら」

 王医師が壁の方を指差すと、そこには起床から食事、ゴミ出し、テレビ鑑賞まで、スケジュールが貼られていた。

 王医師は苦笑いしながら言った。
 「次は『薬を飲む』、それから『ゴミを出す』と言い出すでしょうよ」

 そうすると秦昭が話の途中で突然言葉を止め、椅子から立ち上がってキッチンの方へ歩いて行くのを見た。
 「薬を飲みに行きました。一秒の差もありませんね――質問にはやはり私が答えましょう。当時、私もずっとその場にいましたので」

 黎永皓が尋ねた。
 「あなた方二人はずっと家にいたんですか?」

 「私はずっと彼とコミュニケーションを取ろうとしているんですが、彼の論理では意思疎通が難しいですね。私が帰ろうとしたとき、午後4時頃でしたが、隣の奥さんが子どもを探しに来たんです。その後一緒にあちこち探したんですが、全然見つからないので、これは本格的に行方不明なんじゃないかと思って、奥さんに警察に電話するようにアドバイスしました」

 前述の言葉通り、黎永皓は具体的な証言を調べ始めたが、陸翊はこれ以上じっと話を聞く忍耐力もなく、部屋の中をうろうろし始め、バルコニーへと辿り着いた。

 バルコニーには特に目ぼしいものは何もなかったが、清潔な小さなテーブルがあり、その横に鳥籠がかけてあった。籠の底がテーブルと平行になっていて、中には小さなオウムが入っていた。羽がなく剥げているところもある。飼い主の手入れが悪いのかどうかは定かではないが。

 陸翊は腰を屈めて、指を鳥籠にちょっと入れてみた。するとオウムはびっくりして籠の中でジタバタと飛び上がった。こんなにびっくりするとは思わず、ちょっと残念そうに指を引っ込めて、それからベランダをよく観察してみようと思った瞬間、誰かに肩を叩かれた。

 陸翊が振り返ると、秦昭が真後ろに立っていた。

 「やはりあなたの専攻について議論したいですね。あなたは、私の考えには『条件反射』があると思いませんか?」

 陸翊は呆然としばらく秦昭を見つめた。
 「いいえ、全く」

 秦昭は陸翊の返答を無視した。これまで数えきれないほど他人を無視してきた陸翊は、初めて他人から無視されると言うことを知ったのだ。

   秦昭は「これまで以上に没入してブツブツ独り言を言い出した。

 「実は条件反射自体が一つのプログラムなんです。本当は、人間の内面は一連の行動に沿って流れており、それを見通すことによって脳内のプロトコルがすべて見えるもので――例えば、隣の趙さんは出張が多く、朝、私が早起きすると、スーツケースを車に入れて、こちらを見上げながら挨拶してくれるので、その動作の流れから、彼の秘密がわかるんです」

 陸翊が何か言う前に、噂話やゴシップに敏感な黎永皓がすぐさま反応した。
 「秘密?」

 「例えば、彼が出張する場合は、社用車が空港まで送り迎えするんです。帰国日が未定だからか、空港の駐車場代が高くつくからかでしょうね。帰りのときはナンバープレートが違うので、彼がスーツケースを持って自家用車に乗るときは、毎回カラ出張と分かります」

 秦昭はニヤリと笑った。
 「どうやら平均して週に一回はカラ出張に行くようです。特に奥さんと口論したあ……」

 「後」という言葉を言う前に、秦昭は部屋の中の大きな時計に目をやると、再び何の前触れもなく口を閉じ、まるで起動したロボットのように周りを無視して家の裏口まで歩き、ローラー付きの大きなゴミ箱を押して外に出て行った。

 王医師はまた肩をすくめて「ほらね」というジェスチャーをした。

 「ほら、ゴミ捨ての時間です。彼は必ず一定の間隔でゴミ出しするんです。ちょっと遠くの方まで持って行くから、しばらく帰って来ませんよ。お二人は他にご質問がありますか?彼が帰って来たら、次はすぐにシャワーを浴びると思います。もう遅いので、私はこれで……」

 ※華(心理学者の名前と思われる)


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