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きみとぼく、わたしとあなた

※こちらは、二〇一四年に執筆した小説群のまとめになります

『ざらざらの舌』 20140701
 くらり、眩暈がしたふりをして、わざと階段から落ちた。ゆらり、つまずいたふりをして、わざと崖から転がり落ちた。それでも誰も、誰一人だ、わたしのことを見ようともしなかった。まるでわたしがこの世にいないもののように、みんな早足で傍を通り過ぎていった。わたしがここにいることを証明するのは、何人かの人間がわたしの傍を通り過ぎる時、氷のように冷たい視線を、す、とわたしに向けることだけだ。それも、まばたきをする間のような短い時間だけなのだけれど。
「ああ、ひどく悲しいわ。誰もが、だあれも、わたしのことをいないように扱うの。気を引こうとしてみてもだめ……いっそおかしな子だと嗤ってくれた方が嬉しいのに」
「けれどお嬢さん、ぼくがついておりますよ。そこまで嘆くことはないのではないでしょうか」
「あら、ネズミさん。もちろん、それはとても嬉しいのよ。けれど……言いにくいのだけれど、あなたは人間じゃあないですもの」
「それはごもっともでございます。しかしお嬢さん、あなたさまに話し相手がいないのも……言いにくいのですが、ぼくのように汚れたネズミしか話し相手がいないのも、事実でしょう」
「まったくね」
 薄汚いネズミと馬鹿げた会話を交わしていると、ふと、身長の高い慈愛に濡れた瞳をした男性が、小柄な少女の頭を優しく撫でているのが目に入った。それを見て、ひどく胸が締め付けられるのを感じた。わたしだって、ああなりたいのだ。誰か、できれば素敵な男のひとと一緒に笑い合いたいのに。
「世の中は理不尽よ。わたしの何がいけないのかしら? 目も当てられないほど醜いこと?」
「少々灰をかぶっておられますが、お嬢さんはそこまで醜悪ではないかと思います」
「なら、この性格かしら。確かに……わたしはあまり良い性格ではないわね? わざとひとの気を引こうとしたり……」
「それも少々あるかと思いますが……ええ、ええ。お嬢さんは鏡を見たことがおありでしょうか? いいえ、あったとしても……鏡に映った自分の姿を自分だと認識できる生き物は少ないですからね」
「それで?」
「お嬢さん、あなたさまが人間に相手にされないのは……見た目の良し悪し、性格の云々ではないのです……呪うのなら……そう、ご自分の運命でしょうな。だってあなたさまは……」
 ネズミが言おうとした言葉など、もうわたしにはすべて分かっていた。ただただ、その言葉を聞きたくなくてわたしは、ネズミの喉をこの鋭く光る爪で引っ掻いて殺し、口の中に放り込んで、噛みもせずに飲み下した。そう、わたしはお腹が空いていた。ネズミの声は、もう、聞こえない。
「〝だってあなたさまは、人間ではなく、ぼくのように薄汚れた野良猫なのですから〟」



『エクスティンクション』 20140701
 午前四時、月の光だけがぼくを照らす、そんな夜。コツコツと耳を震わせるのはココアを片手に持ったきみで、呆れたように笑うそのひとは、月の光に照らされてきらきらと輝いた。鼻をかすめたココアの匂いときみのシャンプーの匂いとが、ふわふわとぼくの口元を緩ませる。
「寒くないの?」
「少しだけ。きみこそ、寒いのは苦手じゃなかったっけ」
「今日は月が綺麗だから、少しくらい寒くたって平気よ」
「ふうん」
 月に花が咲いたのはいつ頃だっただろうか。それはもう随分と昔のことのようにさえ思える。どうして月に花が咲いたのか、そんなことは誰も分からない。誰も気に留めることをしないのだ。この世界は、ぼくらが暮らすには少しばかり忙しすぎるのかもしれない。
「ああ、あれね。あなたがいつも言っている……」
「午前四時になると彼らは月へと向かうんだ。月の花に蜜があるかどうかは、ぼくには分からないけどね」
「あれは、蝶々……よね」
「そう。グラス・ウィング・バタフライ」
 月の乾いた大地に艶やかに咲く花たちは、どうも人間には有害なものらしい。月へ調査に向かった宇宙飛行士が何人か、美しい毒に侵されて死んだと聞いた。正確には花になったというべきだろうか。いいや、そんなことはあまり重要ではない。ぼくらは飛んでいきたかった。あの透明な蝶々のように。夜空を見上げる余裕もないこの地球から、ふたりきりで逃げ出したかったのだ。
「ぼくら、虫だったらよかったのにねえ」
「変なひと。でも、そうね。そうかもしれない」
「いっそあの花の毒に侵されて死ぬのもいいかも」
「ああ――来世はそうなりましょうか」



『いじわるなのは地球儀だけでいい』 20140701
 大嫌いだと思った。砂糖をひと匙かき混ぜた、まるで銀河のようなホットミルクも、花の叫び声みたいな風の音も、嘆くほど冷たくないこの世界も、ひだまりにそっくりな君の笑顔も。
「まだ十四だったのでしょう。かわいそうねえ」
「夢は宇宙飛行士だったそうよ、気の毒ね」
「でも、……こんなこと言いたくないけれど、あの子ちょっとおかしかったから。親もほら、いないし」
「ああ……」
 誰も彼もがぼくの話をしている。ばつが悪そうに顔を伏せて、ひそひそ、ひそひそと、それはそう、おばけの囁きによく似た声で。そうだ、ぼくは死んだのだと、おばけなのはぼくの方なのだと、そんな風にお腹の奥で、ろうそくの火が消えた音と一緒にたくさんのおばけが囁いている。
 日曜の朝、テレビで見たヒーローのように、車にひかれそうになっているきみをぼくは助けた。けれど、ぼくは生憎ヒーローでもスーパーマンでもないものだから、ふつうに、それはもうふつうに、車にひかれて死んで、おばけになってここにいる。多分、そういうことなのだろう。
「あんたを助けてあの子、死んだんだって?」
「そうよ。わたしのせいなの。ばかでしょう」
「……今のあんた、いつものあんたと……まるで別人ね」
「そうかも。きっとわたし、一度死んだんだ」
 後ろからきみの声が追いかけてくる。その声を聴いてやっぱりぼくは、大嫌いだと思った。ぼくの前に供えられた甘いホットミルクも、風の音すら聴こえない良い天気の今日も、唄うほど優しくないこの世界も、きみの笑顔を奪ったぼくのことも。
「そうやってお人好しで、ばかで、ばかだから……わたしなんかを助けて勝手に死んでさあ。ばかじゃないの、ばかだよ。きみも、わたしも。大好き、だったのに」
 喉の奥がぐつぐつと熱い。まるで煮えすぎたトマトスープのようだ。人が行き交うこの場所で、ぼくはきみの名前を叫んだ。一度、二度、何度も、何度も、何度も。洪水のような人ごみのなかで、きみだけがこちらを振り返った気がした。



『無知であることは罪である』 20140701
 ふと、ずうっと昔、ぼくがまだ幼い頃、こっそりと祖母から聞いた話を思い出した。地球の周りには、薄い土星のような輪っかがあって、普段は秘密にしているそれはよくよく見てみると長い、とても長い蔦なのだ。その蔦を三周、ゆっくりと指でなぞった後、北極星の方向に五歩進むと、白昼に魔女が当たり前だとでも言いたげにすいすいと空を飛んでいる国が見つかるのだとか、そんな話。
「おばあちゃんの言うことなんて信じないの。ほら、ね、あのひとは少し……分かるでしょう」
「じゃあ、昼の魔女はいないの?」
「いないわ。いないに決まってるの。そんなことより、もうすぐ家庭教師の先生がいらっしゃるわ。準備しておいて、良い子ちゃん」
「……はあい」
 こんな話を母にしてみても、母は物憂げに祖母の方へ視線をやるだけだった。それはごく普通で当たり前の反応だったのだろうと、今では思う。ぼくだって、自分の子供からこんな話を聞かされたならば、母と全く同じ反応をするだろうから。
「おばあちゃん、何度やってもその国へ行けないんだ。それどころか、蔦の輪っかすら見当たらないよ。ねえ、どうやったらいいの?」
「ああ、ああ。大切なことを忘れていたよ。一番、大切なことを。失恋をしたときに……恋を失った瞬間さ、分かるね? 蔦の輪は見えるようになるんだ。いいかい、涙が溢れて洪水になる前に、だよ。蔦をなぞるんだ、ただし焦らず、ゆっくりとな」
「恋を失うって?」
「そのうち分かるさ」
 祖母の話はこうしてたまに思い出す。心のすみにそっとしまってあるのだ。埃と傷がつかないように、大切に、大切に。
 からん、と氷の溶ける音がした。ただ、こんな話は、小さなカフェのテラスで大切なひとと談笑をしているぼくには、全くといっていい程に関係のない話なのだが。少しばかり空を仰いでみると、魔女が澄んだ青の中を泳いでいた。それはまるでこう言いたげに空中で回転してみせた。
 〝こんな天気の良い昼下がりに、魔女が空を飛ぶことの何がおかしいって言うの?〟



『愛すべきスージーにまばたきひとつ』 20140702
 埃のかぶったアルバムをぱらぱらとめくる。セピア色に焼けた写真たちは時代と自らの年齢を感じさせて、懐かしくもあり、寂しくもあり、そして、少しばかり憎らしい。
 私に制服がよく似合っていたあの頃、結婚を約束した彼がいたあの頃、そこに戻りたいとは決して思わないけれども、少しだけ、ほんの少しだけ、あの頃の自分の気持ちを覗いてみたいと思った。
「あのひと、どこへ行ってしまったのかしらねえ」
 金糸雀色だった自慢の髪も、今では真っ白に耄けてしまった。もし、心の中にあの頃と同じような、まるで汲みたての炭酸水のようにしゅわしゅわと弾ける気持ちが戻ってきたのだとしたら、この真っ白な髪も煌めく金糸雀色に戻ってくれるのかもしれない。我ながらファンタジック。このあたりの感性はおばあちゃんになった今でも、まだまだ捨てたものではないようだ。
「あのひと、きっと……そうね。宇宙人か……未来人だったのだわ。みんなそう言っていたもの。あの頃の私、そんな噂信じなかったけど」
 結婚を約束した彼との記憶は曖昧でふわふわとしている。夢をみていただけなのかもしれないと、最近では少し思うようになった。
 ただひとつ、はっきりと覚えているのは、あのひとの真っ黒でこの世の深い深いところみたいなその瞳が、とても可愛く笑うこと。そう、あのひと、笑顔がとても素敵だった。私、あのひとの笑顔がほんとうに、ほんとうに好きだった。
「もう会えないのかしらね。会えたとしても、あのひとが褒めてくれた髪はもうこんなだし、だめね。きっと、だめなのね」
 埃のかぶったアルバムに、彼の名前を指でそっと描く。少しだけ、涙が零れた。そんな風に、いつかのばかげた、金糸雀色の髪をもった少女の真似をしてみれば、ふと、ピイと口笛のような音が耳をかすめて、思わず顔を上げた。
 立ち上がって辺りを見渡すとそこはいつかの、彼と私が出逢った蒲公英畑で。さっきとはまるで打って変わって、ゆるゆると瞳から溢れる笑みを、後ろに立っているそれに、振り返って思い切りぶつけてやった。それは、あの頃の少女の微笑み方だった。
「……随分と、待ったわ」
「きみはほんとうに黄色が似合うね」
「……白髪のおばあちゃんでも?」
「もちろん。……お待たせしました、お姫さま」
「ああ、いやだわ。あなたったら、宇宙人でも未来人でもないのね。そう……魔法使い」
 セピア色の写真たちは、もう必要なくなった。



『コージィ』 20140702
 空が降ってくると思った。それほどまでにこの街の空は薄汚れた灰色で、それは、ぼくの心をひどくひどく締め付ける。そう、まるで煙草の煙のように、まるで愛するひとの焼けた骨のように、何でもないような顔をしてぼくの傷口を汚し、するりするりと血管を通って、肺の方までやってくるのだった。
「何を食べてるの」
「これかい。これは、薬。薬さ」
「……ううん、違う。それ、タブレットでしょう。シトラスフレーバー」
「……ああ。よく、分かるね」
 砂ぼこりが視界を遮る。こんなにも灰に染まったこの街で、ぼくときみは一体何をしているのだろう。こんな所、今すぐにでも出ていきたいというのにもかかわらず。きみを連れて、遠くの、どこか遠くの、空が澄んでいる場所へ、今すぐに。
「ね、わたし。この街が好きよ、とっても。灰色の空も、砂ぼこりも、がちゃがちゃした音楽も、わたしは」
「ぼくは嫌いだよ、こんな所。早く出ていきたいんだ」
「それは、すごく寂しいことね。わたし、きっと寂しさの海に溺れて死んでしまうわ」
「ほんとはきみのせいなんだろうね。ぼくの心がこんなに痛むのは」
「それってあれだわ。言いがかり」
 きみが空なのだと思った。この街の空は薄汚れた灰色で、ぼくの心をひどくひどく締め付けるのだ。それはまるで煙草の煙のように、まるで愛するひとの焼けた骨のように、何でもないような顔をしてぼくの傷口を汚し、するりするりと血管を通って、肺の方までやってくるのだ。まるでぼくがきみに恋をしているかのように、愛をしているかのように。きみに心臓を突き破られる日を、きっとぼくは待っている。待っているのだ。
「灰色の空、綺麗でしょう」
 ふと顔を上げると、烏と鳩が寄り添って眠っていた。それはそう、まるで死んでいるかのように。



『きみと見る朝日にミルクをたらして』 20140705
 たとえばぼくが空を飛べたとして、何かが変わることはあっただろうか。たとえば僕が目からビームを出せたとして、何かが変わることはあっただろうか。きっとない。そうなのだ。それらは、ぼくが一輪車に乗れないことと同じくらい、世界にとっては些細なことなのだから。
「また難しいこと言ってる。今度はなんなの?」
「……や、ぼくが目からビーム出せたらどんな感じかなって考えてただけ」
「目からビーム? 別にいいけど、あたしの家だけは壊さないでよね」
「……きみはそういうやつだよ」
 コトコトと腹に心地よい音を鳴らしながら、ポタージュスープの入った鍋はコンロの上で踊る。うん、今のを彼女が聞いたら「なかなか詩的ね」と言ってくれることだろう。いいや、「そんなことよりお皿並べてよ」と言うのかもしれないが。
「ほら、できたよ。あんたの好きなポタージュスープです」
「うん、ありがとう。美味しそうだね」
「まあね、市販のやつだしさ」
「知ってる」
 たとえばぼくが空を飛べたとして、何かが変わることはあっただろうか。たとえば僕が目からビームを出せたとして、何かが変わることはあっただろうか。きっとない。変わらなくていいのだ。ぼくがどんなスーパーヒーローや天才や、たとえ世界を壊す悪者だったとしても、きみはぼくの隣にいて、市販の美味しいポタージュスープを作ってくれるのだろうから。
「これって、けっこう幸せなことだよね」
「あら、なかなか詩的ね。何でもいいけどお皿並べてよ」



『オリオンの欠片』 20140702
 きみが死んだと聞いたあの日、ぼくのなかには何があっただろう。悲しくもなく、辛くもなく、怒りも覚えなかったこのぼくのなかに。もしかすると、ずっと前からその瞬間が訪れることを、ぼくはどこかで分かっていたのかもしれない。そう思えるほどに、そうとしか思えないほどに、ぼくは穏やかな気分だったのだ。胸に溢れるのは、きみへの風化した想いと、鮮やかな思い出だけだった。
「そっか……ってお前、それだけじゃあ、さすがにないだろう」
「だって、ねえ、それしか。仕方ないだろ」
「だっても何も……。お前、あいつのこと好きだったんじゃないのか」
「だったよ。でも、何年前の話だい。ぼくは向き合えてるよ、あいつの死に。第一、あいつの恋人はお前だろ」
 突然、家に押しかけて来た古い友人から聞いたのは、いつかの想い人の死。まるでこの世の終わりみたいな顔をした友人は、悲しいだとかそういった感情よりも、ひどく混乱しているように見えた。
 道を教えてくれと言わんばかりの目をしている彼を一瞥して、ぼくは庭に咲いている花に水をやった。
「だってさあ……お前といるときのあいつ、すごい幸せそうな顔をしてたんだよ。敵うわけないだろ、ばかだね。……死に目には?」
「……会えたさ」
「きっと、ぼくには分からないけど、あいつ……幸せだったんだよ。なあ、ぼくはお前じゃないから大丈夫だなんて言えないけどさあ……そんな顔してたら、笑われるぞ」
「……お前ってほんと、あれだな。いいやつ。……だから、もてないんだよ。いいやつ過ぎるんだ」
 その言葉を聞いたぼくは少しだけ笑った。つられて友人も笑った気がする。きみが死んだと聞いたこの日、ぼくのなかには何があっただろう。きっと花だ。心のなかにそっと咲いたその花は、いつまでも枯れずに輝くのだろう。それは、名前をつけたら永遠に輝きを失ってしまうものだ。ぼくにはそんな気がする。
「あいつ、ありがとうって言ってたんだよ」
「ああ、だろうね。あいつらしいや」
「心からありがとうって、そんな顔をしてた」
「お茶か何か飲むかい」
「……ああ。いや、水で十分だ。少し、思い出話をしないか」



『おそばにおいて』 20140810
 北風が刺すように冷たい日、いつものようにきみは、しゃくしゃくと落ち葉を踏み鳴らし、白い息を吐くぼくの前を楽しそうに歩いていた。
 こちらを振り返っては鈴の鳴るような声で笑い、「好きだよ」だなんて呟くきみに、ぼくの肺は押し潰されたように上手く働かなくなる。
「やっぱり、あなたは好きって言ってくれないんだ」
「……うん。そうだね」
「怖がりだものね、あなたって。やっぱり、長生きだから……ひとを愛して……そのひとがいなくなるのが怖いの? たとえば、あたしが?」
「長生き、なんてものじゃないさ。死なないんだよ、ぼくは。ずうっと、このまま。そういう生き物なんだ」
 それを聞いたきみは、やっぱりぼくの何歩か先を歩いて、そして何かを思ったのか突然に立ち止った。きみはしばらく何も言わないまま、ただ今日の澄んだ空をじっと眺めていた。そうしてまた、きみは突然に振り返り、ぼくの方まで早足で歩いて来て、少し怒ったような目をしてこう言った。
「愛しているのよ。あたしは、あなたのこと。誰がどういう生き物かとか、そういうのは置いといて……あなたは、どうなの」
「それは……。それでも、ねえ、ぼくは死なないんだよ。解るかい。きみが死んでからもぼくはずうっと生き続けるんだ。ねえ、解るかい、何が言いたいか? それって……まるで、地獄のようだろう?」
「答えになってない。……そうやってあなたはいつもあたしから逃げるのよ。怖いんだわ、そう、あなたは……怖がってるだけの意気地なしなのよ」
「それはぼくが一番分かってるよ。でも、きみに一体ぼくの何が分かるって言うんだい」
「分からない。分かるわけないでしょ。あたしは人間なんだから、あなたのことなんて分からない。だから、あたしはあたしがやりたいようにやっているの。今だって、ねえ、人間ってこういうものなのよ」
 びゅうびゅうと風が吹いて、きみの髪が揺れ動く。揺れる髪から覗くきみの目が、きみの口元と一緒に笑ったから、ぼくはまた呼吸が上手くできなくなった。結局、そういうことなのだろう。ぼくが何かを言おうとして口を開く前に、きみはいつものように花みたいな笑顔を浮かべ、鈴の鳴るような声で話を続けた。
「ね……じゃあ、あたしを五十年だけ愛してくれる? そうしたらきっと、あたしは死んで……そして天国で神様にお願いして……特別早く生まれ変わらせてもらうわ。大丈夫。そうして何度もあなたに出逢いましょう。だからあなたも……何度も、何度も、あたしに恋をして。いいでしょう?」
「……敵わないよ。ねえ、ほんとうに? なら、ぼくはきみを、どうやってきみ以外の誰かと見分けて……見付ければいいんだい」
「きっと分かるわ。でも……そうね、あなたの前に誰かが現れたとき……そのときはそのひとの目を見て。ね、あたしの目は赤いでしょう。次もあたしはこの赤い目で生まれてくるわ。そしてこの瞳であなたのことを見付けるから、あなたもこの瞳を見て、あたしを見付けてね」
 きみのその言葉が、どうかオオカミ少年のような嘘でないことを心のすみっこで祈りながら、ぼくは小さく頷いた。びゅうびゅうと吹く北風は、やっぱりぼくの頬を冷たく凍らせたのだった。
「ああ、でも、あたしに分かりやすいように、その狼さんみたいな耳と尻尾は……そのままでいてね。いつまでも」



『マシェリのまほうはひとつだけ』 20140705
 彼女は白い服が好きだった。白色のワンピースやドレスばかりを身に着けて、ひらひらと蝶のように街へと繰り出して行くのだ。白い肌に、白い服、聞いているとまるで、彼女が幽霊かのような印象を与えてしまうかもしれないが、彼女は髪の毛、そう、髪の毛だけだ、それだけはいつも奇抜な色をさせていた。今日の彼女はコスモス。それはこの世の色とは思えない、美しいコスモスだった。
「うふふ、お花畑に咲いているコスモスと私の髪の色、どちらが綺麗かしらねえ」
「うん? どうだろうね、でも、コスモスを君の髪に飾ったらもっと素敵なんじゃないかな」
「いやねえ。そこはきみのほうが綺麗だよって言うところでしょう?」
「あ、そうか。ここの生まれじゃないからね、疎いんだ」
「知ってるわ。そういうとこも好きよ」
 春の風を受けて踊るスカートと彼女の髪に、ふと、自分がどこにいるのか分からなくなるような錯覚に陥る。もしかしたらきみは、いつもこんな感覚なのかもしれないな、だなんて思ったりもした。
 どこか人間離れした彼女の容姿と感性は、きっと彼女にとっての誇りで、重りなのだろう。彼女は必死にこの世界に手を伸ばしているのだ。掴んでくれと、掴んだら離さないで、と。奇抜で美しい髪の色と、白い服をまとって。
「ねえ、明日は何色がいいと思う?」
「そうだね……茶色。ココアブラウンなんて、どう?」
「あらまあ、それって普通。でも、いい色かも」
「ぼくはそれが、きみによく似合う色だと思う」
 手を掴んだら、離さないでね。きみの表情は確かにそれを物語っていた。離すわけがないじゃあないか、こんなに可愛くて愛おしいひとを。そっと伸びてくるきみの手を、ぼくはぎゅっと握った。そうするときみはいつものいたずらな可愛い笑顔を浮かべて、ぼくの額にキスをしたのだった。
「……参ったなあ。ところでずうっと気になってたことがあるんだけど」
「なあに?」
「きみのその色んな色に変わる髪、一体何で染めてるの?」
「あら、あなたは知ってるでしょ。女の子はみんな、魔法使いってこと!」



『その白い肌が灰になるまでね』 20141130
 きみが湖に映り込む星を掬って食べた日、そのまま君が銀河のような水の底に沈んでいったあの日、わたしは心臓の奥深くにある、小さな、とても小さな箱に鍵をかけた。わたしは想い出とわたしの魂をその箱にしまっておいて、いつかわたしが死んで人間ではない何かになるときまで開けないでいることに決めたのだ。鍵はどこかに隠してある。それがどこだったかはもう、忘れてしまったが。
「お嬢さん」
 ふと、何かに呼ばれた気がして振り返るとそこにはわたしと同じ背丈くらいの、ふわふわとした毛を全身に纏った……いわゆる、ありがちな映画に出てくる〝悪くない怪獣〟のような生き物が目の前に立っていた。
「お嬢さん、鍵を落とさなかった?」
 不思議なことにわたしは、怪獣を目の前にして驚きも怖がりもしなかった。むしろ、どこかに懐かしさを感じ、ふっと笑みを零してしまったほどである。今、わたしの目の前に怪獣がいる。もしかしたらと思い周りを見渡してみると、どこかに見覚えがある、暗い、月の光もあまり差し込まないような暗い森の中にいた。そしてやはり、わたしも驚きはしなかった。もちろん、怖くもなかった。そのことに、わたしは少しだけ驚いた。
「落としてないわ。鍵を持っていないもの。……忘れているだけで、もしかしたら君のものかもしれないよ。君は誰?」
「ぼくの? それはちがう。ぼくの鍵はないんだ。必要ない」
「鍵が必要ないって? 呑気なひと……ひと、ね。でも、わたしも鍵は必要ないの。もとより、開ける気がないから」
「それは嫌いなものが入ってるから?」
「違う。……違うはず。たしか……ずうっと前のことなの。たしか、わたしはそれを……大切だったからしまっておいた……そうなのよ、そうなの」
 わたしの話を聞いているのか、それともいないのか、怪獣はどこか遠くを見つめるように穏やかに笑い、わたしに渡そうとしていた鍵を自ら飲み込んだ。それにはさすがに驚いたわたしは何度か瞬きをし、その瞳の小さな呼吸の間に目の前にいた怪獣は跡形もなく消え去り、わたしの前に立っているのはいつでも優しく笑っていたあの日のきみだけだった。
「ぼくがきみの鍵だったみたいだ。心臓の奥、開いたかい? 大切なものは見つかった?」
「……湖の星はどんな味だった?」
「悪くなかったよ。心臓が止まるくらいに美味しかった」
「わたしも……」
「うん。一緒に行こう」
「ずっと?」
「ずっと、一緒だよ。ぼくら、ずうっと」
 わたしの瞳にはきみとあの日の湖が映っている。まるで星が水の中にあるようで、わたしは思わず湖の水に手を伸ばし、掬ったそれを飲み込んだ。そう、あの日のきみと同じように。隣で穏やかに笑うきみと同じように。
「どう、心臓止まった?」
「かもしれない」
「なんだか、さっきより幼くなったんじゃない」
「うん。今のわたし、たぶん、二十一グラム」



『昔話をしよう』 20140807
 この日記を読むあなたへ、まず最初に知っておいてほしいことがある。そう、わたしの傍に彼がもういないことを、そして彼は自らの命を絶ったことを、これを読むあなたに知っておいてほしいのだ。
 あなたにとってこんなことはきっと些細なことで、あなたは蚊があくびをしたくらいのことのように思うのだろうけれど、わたしにとって彼の死は、世界が終わりのような出来事だったのだ。そしてそれは、未だにわたしの心臓に突き刺さったままなのだ。
 わたしがひっそりと住んでいるこの星は、輝きを失った星屑がごろごろと転がっている、そんなところだ。あなたにも分かりやすく言うとするならば、そう、ゴミ捨て場。そんな感じなのだろう。
 命あるものはわたしと彼、今ではわたしだけなのだけれど……、しかいない。彼のいなくなったここは、もうただの、冷たくて寂しい星だ。
「ねえ、知ってる?」
 これが彼の口癖だった。この星を出たことのなかったわたしたちは、知恵だとか、知識だとか、そういったものをほとんど持ち合わせていなかった。だから、こう言った後の彼の口から出るものの大抵は嘘だったのだろう。それはもう、今では確認のしようがないことなのだけれど。とにかく、彼のこの一言で、寂しいわたしたちの暇つぶしが始まるのだ。
「なあに?」
「あそこの星屑が言っていたんだけどね」
「うん。うん」
 彼が命を絶つ最期の夜、わたしたちは確かこんな風な会話をした。随分と前のことだから、記憶は少しばかりぼんやりとしている。まるで霧がかかったようだ。ただ、その夜もわたしたちはいつも通りで、普通に寂しい生き物だった、それだけは憶えている。
「落とした星屑をさがし歩くには、ふたり以上じゃないといけないんだって」
 そうしてわたしは今日も明日も、寂しくて冷たい星の上に立っている、ひとつで独りぼっちの生き物だった。そう、あなたがこれを読んでいるこの瞬間だって。



『タンポポのお砂糖』 20140706
 少女、タンポポという名前をもつ少女は、窓から零れる陽だまりにそっと耳を傾ける。彼女は、両手に焼きたてのビスケットが詰まった瓶を抱え、陽だまりから滴り落ちる色々な声を聞いていた。最初に、空を泳ぐ鳥の声。次に、揺れるシラカバの葉の声。そして、友達のモンシロチョウが自分を探す声。それらをタンポポは一通り味わった後、はっと手の中のビスケットのことを思い出し、慌てて目の前の階段を駆け下りた。
「あら、ポポ。ビスケットのほうはどう?」
「パフおばあちゃん! ビスケットはここにあるよ、ほら、いい香りがするでしょう?ああ、じゃなくてね、おばあちゃん。わたし、モンシロチョウが呼んでいるから、ね、早く行かなくちゃ!」
「まあまあ、ちょっとお待ちなさいな。店番ならあたしがやっておくから良しとして、まずは今日の在庫を聞いておかなくちゃあね。何か足りないものはあるかしら?」
「ええと、そうね。この前たくさん売れた……そう! キンモクセイの糸!……が足りないかな。それぐらいよ、おばあちゃん」
 タンポポの言葉を聞いて、彼女の祖母にあたるパフ・ボールは穏やかに笑い、そっと椅子から立ち上がった。タンポポは一家代々、小さな雑貨屋を経営している。〝フラワーボックス〟。それがこの雑貨屋の名前だ。ここでは、ヒマワリの塩。ハルジオンの髪留め。ツバキの口紅。そんなものたちが毎日、誰かに買われるのを待っている。タンポポは、パフがある商品に手をかけるとぱっと明るい表情になった。
「おばあちゃん! それ、タンポポのお砂糖ね!」
「そうですよ、ポポ。春の風と夏のきらめき、秋の香りと冬の冷たさを閉じ込めた、ね」
「もしかして、モンシロチョウへのお土産に持って行っていいの?」
「それがいいわ。あの子はこれが大好物ですからね。ええ、今日はきっと一日天気が好いですわ。よろしい、夕食までには帰ってらっしゃい」
「分かったわ、おばあちゃん。でも、よく天気のことなんて分かるわね。わたしには、全然!」
 それを聞いたパフは、いつもよりずっと優しい顔になった。それはまるで、柔らかいタンポポの綿毛のようであり、タンポポはこの時初めて、そう、このひとこそが世界でただひとりのパフ・ボールなのだと心の底でしっかりと確信をしたのだった。
「何でも分かっているように見せるのは、老人の特権ですからね。ポポ。さあ、行ってらっしゃいな」
「陽が森に〝また明日〟するまでには戻るよ。行ってきます!」
 その日は一日中、太陽が笑っていた。



『あくびでも召しあがれ』 20140719
 沈んでいた意識がぷかりと浮かび、わたしはゆるやかな温度で目を覚ます。起き抜けの頭では、今が何時なのかすらも分からないが、なんだか妙に静かな夜だと思った。いや、夜明けなのかも知れない。そんなことをぼうっと考え、無意識に指を髪に突っ込みながら、わたしは暖かく光るランプの電気を小さく音を立てて点ける。
「……起きてるの」
「あれ……。ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、ぼくも目が覚めただけ」
「やだなあ、それを起こしたっていうんだよ」
 知ってるよ、眠たそうにそう答えるあなたは、まるで小さな子どものように見えて、そんなあなたをわたしはひどく愛しく思った。
 ふと、暗がりの中時計を見上げてみると、針が指すのは午前三時前で、ああ、わたしはこんな時間に起きてしまったのか、これはもう寝れないや。そんな風に段々と鮮明になっていく頭で、今日は早起きをすることを決めた。
「あなた、寝る?」
「ううん、起きるよ」
「そっか。じゃあ……コーヒーでも淹れようか」
「ああ、ぼくが淹れるよ」
 そう言って立ち上がりキッチンへ向かい、ふたつのマグカップを手に持ってベッドへ帰って来たあなたから、あなたにしては珍しい、インスタントで淹れたコーヒーが差し出される。インスタントでもなんでも、あなたのつくるものはわたしがここに座っていることのように間違いなく美味しいのだろうけれど。女の子として、それはちょっぴり悔しいなんてことも思ったりして。
「ありがとう」
「うん」
「ランプだけじゃ、暗いかな」
「これぐらいでちょうどいいよ」
 あなたの手が、優しく髪に触れる。このまま寝癖、直してくれないかなあ。まだ少し熱いコーヒーをゆっくりと口に含み、そんな風に考える。
 きっと、まだ、朝はやってこないのだろう。



『2068年』 20140814
 「そうなのよ」。黄昏を迎える空の下、彼女はそう、ぽつりと呟いた。何がそう、なのか。おれには彼女の世界を理解することは難しい。ただ、夕日に照らされてひらひらと輝く彼女の金色を眺めていることくらいしか、彼女の前に座っているだけの、小さなおれにはできないのだった。
「そう、こんな荒れた土地に……花が咲くだなんて……ね。わたし、想像もしなかったわ。あなたも、こんなところに……って、思うでしょう?」
 おれには言葉を話す口がない。彼女のような手も、脚も、おれは持ち合わせてはいないのだ。そう、おれは、彼女の身体とは何もかも違っている。だからこうして、彼女に呼びかけられても、おれは言葉を返すことができないのだ。やっぱり、小さいだけのおれには、小さいだけの身体を少しばかり揺らして、彼女の美しい金色を眺めていることくらいしかできないのだった。
「こんなところにひとりきりって、あなた、少しかわいそうかもしれないわね。……でも、けれど、だからといってわたしがあなたのことを連れて帰るのは……もっと、かわいそうかもしれない」
 優しい彼女、優しいだけの彼女もまた、いつもこういう風に言ってはおれから逃げてばかりいる。おれに口があったら伝えられるのだろうか。
 〝大好きなきみ。こんなところにいつまでもひとりで、いつやってくるかも分からない死を待つくらいなら、おれはいっそきみに、この小さいだけの命を摘み取られたい〟と。
「それじゃあ……また、来るわね。赤い小さなお花さん……わたしの小さい、お友だち」
 彼女のその言葉におれは、やっぱり、彼女の金色の髪がひらひらと揺れ動くように、小さく身体を揺らすことしかできなかった。
 黄昏を迎えた空の下、優しいだけのきみは今日もまた、おれをひとりぼっちにさせた。



『Your dream won't die』 20140102
 雲を通り抜けると、そこは青一色の海の中だった。俺は飛行機乗りになってもう随分と経つが、青の中を翔けるこの驚きと嬉しさを混ぜ合わせた感情だけは、変わらずにずうっと心臓の奥を燃やし続けている。どくどくと高鳴る鼓動の音を感じながら、空を映した海が目に捉えられるくらいまでゆっくりと降下していく。何か着陸出来そうな島はないだろうか。そうエンジンの音を心地よく思いながら、目を凝らして海の上を見渡した。
「誰だ? あれ……」
 小さな島の上でひとがこちらに向かって大きく手を振っているのが見えて、思わず声を漏らした。よく見てみれば何かを言っているようにも見えて、あんな島に知り合いはいなかったはずだが、手を振っている人物に少し興味が沸いた。
 あそこに着陸してみよう、俺はそう思い立ち、島に向かってふたつの青の中を翔け、島に生えている草花を大きく揺らして飛行機を着陸させた。ゴーグルを外し、相棒から降りてみれば、先ほどまでこちらに手を振っていたあの人物が、嬉しそうにこちらへ駆け寄って来た。
「よお、相棒!」
「いいや、人違いだ。俺の相棒はこいつだけなんでね」
「分かってる、分かってるよ! 飛行機乗りはみんなそういうのさ。〝自分の相棒は自分の飛行機だけ〟ってね。いや、飛行士はみんなそうだ。さっきのは俺なりのジョークだよ」
「……で、俺に何か用だったのか? あんた、何か叫んでたみたいだが」
「いや? お前さんに向かって挨拶してただけだよ。〝ボン・ヴォヤージュ!〟ってね。……いやだな、そんな顔するなって! ジョークだよ、分かるだろ?……お前さんがあの雷雲の方に向かってるって、なんとなくさ、思ったから。降りて来いって叫んでたんだよ、向こうの雷雲……気付いてたか?」
 そう言われて空の向こうを見渡してみれば、確かに大きく渦巻く雷雲が見えた。こちらの空と海はこんなにも青いのに、向こうのそれらはまるで、雷雲を境界線とした、こちらとは全く違った世界だった。
「いつ見てもおっかないよなあ、あれ。俺が生まれた頃……いや、もっと前か……それくらいからずっと向こうにあるんだぜ。お前さん、あそこに突っ込んだ飛行機乗りが誰も帰って来てないことくらい……知ってるだろ?」
「知ってるし、あんたの親切も嬉しいさ。けど、そうだな……あんた、呼びかける相手を間違えたみたいだ。俺は往くんだ、あの雲の先まで」
「往くってお前さん……そりゃあ……」
「無理な話ってか。どうだろうな……でも、往かなきゃいけない。向こうには俺の……会いたいひとがいるんだ」
「……お前さんってやつは命知らずだ。会って数十分も経たないが、これだけは分かったぜ。お前は馬鹿だ! そして俺はこれも知ってる、世界を動かすのはいつも馬鹿だってな!」
 それだけ聞くと、俺は再びゴーグルを装着した。鷲の眼の形をしたそれは、いつも俺に勇気を与えてくれる。飛行機に乗り込もうとしたその瞬間、ジャケットを強く引かれて振り返る。
「なあ、これ持ってきな! 俺の好きな酒だ、美味いぜ。それとも、どうだ、今から?」
「……いや、俺は乗る前に酒は呑まない」
「そりゃあそうだ。その会いたいひと……ってのに会ったときにお前さん、酒臭かったら格好もつかないだろうしな!……なら、帰りにまた寄ってくれ。そうしたら俺たちでこれ、呑もうぜ。それまでお前が持っててくれよ。……ああ、それ、高いんだ。死んで一緒に海に落としたら許さないぜ!」
「……ああ……ありがとう。じゃあな」
「待てよ、相棒。……ひとつ、聞いていいか? その会いたいひとってのは……生きてんのかい」
 俺はその質問に答えず、手渡された酒瓶を手に飛行機に乗り込んだ。深呼吸の音を掻き消すようにして、エンジンを轟かせながらふたつの青に向かって飛び立ったとき、自分の耳にしか届かない声で先ほどの彼の質問を呟いた。その会いたいひとってのは……生きてんのかい。
「……さあ、どうだか」



『さて、きみの海は思ったより深い』 20140112
 彼と一緒にいるときはいつも、波の音と潮の香りがわたしを包んでいた。彼は海が好きで、貝殻が好きで、砂浜の白色が好きで、ばかみたいな嘘を吐くひとだった。朝、波打ち際をぶらぶらと歩き回るのが、彼の小さくて大切な日課だったものだから、わたしは朝早くに目覚まし時計をセットしては、寝惚け眼をこすりながら彼の隣や後ろをついて回った。
「俺さ、海の中に行ってみたいんだよね」
「……水着もないのに?」
「いや、そういうことじゃなくて……クジラかシャチか、一番はイルカかな」
「つまり、乗ってみたいってこと?」
「ううん。なれたらいいなって思うだけ」
 ずっと前に、彼から〝クジラの骨〟だと言って渡された、あの白くて冷たい、触ると少しざらざらしていた小さな塊は、調べてみたらイルカの骨だった。それでもそれは、彼から貰った、確かにどこかで生きていた生き物の骨なのだ。そう思うと何だかとても捨てることができなくて、わたしはその小さなイルカの骨をコルク瓶に詰めて、どうしてだかいつも手放せないでいる。まるで呪いのようだ、そう自分に向けて言ったことさえあるほどに。
「もし……きみがイルカになったら、こうして話すこともできなくなっちゃうよ」
「そう?……そんなことないよ」
「どうして?」
「……なんとなく、そう思うだけ」
「へえ……きみっていつもそうよ。何かを言おうとして、それなのにいつも途中で逃げ出すの。……どうせ、遠くへ行きたいとか思ってるだけなんでしょ」
「……そうなのかもね」
 ある朝、彼は消えた。いつもと同じような日だった。わたしはいつものように、朝早く目覚まし時計をセットして、寝惚け眼をこすりながら彼がいつも立っている海岸へ足を走らせ、彼がまだ来ていないことに少しばかり違和感を覚えた。それでもわたしは、待っていれば彼はそのうちやって来るだろうと何の根拠もなく思い、砂浜に視線を落としていた。イルカの骨の入ったコルク瓶を撫でながら。
 ふと、視線を自分の足元へ持っていくと、そこにはコルク瓶の中の骨と同じくらいの大きさをした、白い塊が落ちていることに気が付いた。不思議に思ってそれを拾い上げた瞬間、なんとなく思った。〝もう彼に会うことはない〟のだと。どうしてだか、彼がどこか遠くへ行ってしまったことを、打ち付ける心臓の音が強くわたしに教えてくれていた。
 わたしは今まで肌身離すことが出来なかったイルカの骨の入ったコルク瓶を、自分の力の届く限り、海の遠くの方まで放り投げた。ただただ苦しい、瓶の底にへばりついたような感情が二度とこちらへ打ち寄せることのないように。
「イルカになったらさあ、俺、きみに魚をプレゼントしようかな」
「……それ、あんまり嬉しくないなあ」
 彼が消えてから、わたしの元に彼から近況を知らせるような手紙はなにひとつ、一通も届いていない。それはそうだ、わたしも彼も、お互いがどこに住んでいるのか、どこから来たのかも知らないままでいたのだから。
 あの日、彼が消えた日、わたしが拾った白い塊は後々、ただの石ころだったことが分かった。わたしはたまに、あの波打ち際を歩く。彼がいなくなった今でも。そこは時々、魚が砂浜に打ち上げられているのが目に映るだけの、静かな場所だ。



『世界のはじまりなんてたぶんそんなものだ』 20140831
 ぼくには毎日必ずやっていることがひとつある。それは、生まれたときからずうっと住んでいる小さな町を、すべて見渡せる緑色の高い丘の上で、黄昏を見送ること。赤く染まった空が、だんだんと紫色に変わり、ゆっくりと夜を迎えるのを見届けることだ。今日の夕焼けはいつもよりも赤みを帯びていて、隣で一緒に空を見上げているきみの頬も、いつもより赤く見えた。
「あ、ねえ、ルフト! 見て! 飛行船!」
「ああ、ほんとだ。いいなあ……ぼくもあれに乗って、世界を旅してみたいよ」
「飛行船で、世界を? へえ……。あそこから見る世界って、どんなかなあ……。でも、飛行船ってすっごく高いんでしょ?」
「うん、そうだね。ぼくなんかじゃあ、まだまだ手が出せないような値段だよ。だから、しっかり働いて……いつかは自分の飛行船を買ってやるんだ。今はただの煙突掃除人、だけどさ」
 さらさらとした風がきみの髪をすり抜け、丘の木々を揺らした。空はゆっくりと紫色を帯びてきて、夜を迎える支度を始めている。
 軍手をはめたままの手を、飛行船の方へかざしてみた。その手をすいすいと空に浮かべて揺らし、気付く。まだ、自分の手はひどく小さいことに。こんな小さな手じゃあ、飛行船の操縦なんてできっこないことに。そうだ、早く大きくならないと、ぼくは船の操縦どころか、今のままじゃあきみすら守ることができないかもしれない。
「ソフィ。あの、さ……ぼく、飛行船が買えたら、旅に出るよ」
「うん。どこへ行くの?」
「どこ? えっと、そうだな。世界で一番、綺麗なところ? とか……。ねえ、なんでそんなに悲しそうな顔、するんだい」
「だって、ルフトはわたしを置いて行っちゃうんでしょ。いいなあ……わたしも、外の世界を見てみたいよ」
「ああ、いや……あ、あのさ。むしろ、ぼくは……ソフィが一緒に来てくれたら、って……思ってたんだ」
 熱くなっていく頬を冷まそうと顔を上げれば、黄昏はもう過ぎ去ったあとで、空には小さな星たちがきらきらと輝いていた。
 この空の中を、いつかぼくは飛ぶんだ。雲を突き抜けて、鳥よりも高く。ぼくの船ならきっと、ドラゴンだって怖くない。もっと大きくなって、きみのことを守れるくらいに強くなったら、ぼくは絶対に、絶対だ、この空の中を飛ぶ。
「……ねえ、ソフィ。ぼくが自分の飛行船を持ったらさ、一緒に行こう。空の海も雲の波も突き抜けて、世界で一番、綺麗な場所に」
「それを早く、言ってよね。もちろん、行こう。一緒に!」
「なんだか、お腹減っちゃったね。そろそろ、帰ろうか」
「わたしも! まずはお腹いっぱいご飯を食べて、また明日、作戦を練ろうよ。飛行船、世界一周計画!」
「そうだね。ぼくときみの飛行船で世界一周だ!」



『庭づたいの幽霊』 20140707
 雪の上に倒れている、雪よりも白くなったきみをぼうっと見つめる。それはあまりに白く眩しく、目には毒以外の何物でもなかった。白の毒が目から頭に伝わって、なんだか妙にくらくらしてくる。ぼくは視線を一度、きみから外し、すぐにまた戻した。まるで、白雪姫みたいだ。そんな風に思ってみたりしながら。
「寝てるの」
 ぼくが掠れた声でそう呼びかけてみても、きみからは何の返事もない。それが少しばかり寂しくて、どくどくと唸る心臓の鼓動を抑えたくて、ぼくはそっとため息をついた。きみはどうやらぐっすり眠っているらしい。そうだ、こんなところで。こんなところで、寝息もたてずにぐっすりと。
「ねえ、聞いてる?」
 何度呼びかけてもやはりきみからの返事はなくて、白い、ただ白い色が目に入ってくるだけだった。熱くなった左目を押さえながら、ぼくはちょっとしたいたずらを思い付く。きみの周りを花で埋め尽くしてみよう。きっと、起きたときにきみはびっくりして、それから笑うのだろう。いつもみたいに、花みたいな笑顔で。
「……いつまで、寝てるの?」
 滲んだ声と水に埋もれた視界のすみでぽつり、そう呟いた。両の目から溢れる涙のわけをぼくは知っている。知っているのに。きみの周りに植えた色とりどりの小さな花たちが、まるでそう、金平糖のようで、きらきら光るそれらにぼくは、ぐつぐつとひどい吐き気を覚え、ついには雪の上に崩れ落ちた。
 何が、白雪姫だ。もしもきみが白雪姫だったのだとしても、ぼくなんかじゃあ、きみの王子様にはなれないってこと、ぼくが一番分かっていたはずなのに。



『うつ伏せで笑う始まりの春』 20140706
 それがなんだったのかはもう覚えていない。ほんの些細なことだったのだ。それは、そう、まるで雀が車にひかれるように、虫が踏みつぶされるように、そんな風に、本当に些細で、けれども少しばかり悲しい、そんなことだったのだ。そんな気がする。そんな気がするだけなのだが。
「おはようございます」
「……あ、ああ。おはよう。お前、いや……大丈夫か」
「はい? ええっと……何がですか?」
「え……ああ……い、いや。何でもない。気にしないでくれ」
「そうですか? なら良かったです」
 今日は、起きたら目覚ましの音が鳴っていた。だから、いつも通りにそれを止めて、顔を洗って、歯を磨いて、朝ごはんは食べる時間はあまりなかったから食べずに家を出たけれど、ただいつも通りに出社をした(何かが足りないとは思ったが、ぼくは気付かないふりをした)。
 そうしてみたらこうだ。ぼくとすれ違うひとたち全員が作り笑いをして俯く。そして足早に去っていく。やはり、おかしいと思う。全く身に覚えがないが、もしかするとぼくが何かしたのかもしれない。
「お前。ああ、ああ。そうだよ、お前だ」
「あ……はい、なんでしょう?」
「……今日はもう帰れ」
「は?……なんで……ど、どうしてですか」
「いいから、早く」
 追いやられるように会社を出て、まだ明るい空の下を歩く。眩しい太陽と生ぬるい風に、少しだけ心臓が跳ねた気がした。ぼくが暮らしている、会社からほんの少しばかり遠いぼろアパートの階段を上っていくうちに、それの正体が頭の片隅で、自分の足が階段を叩く音と一緒にカンカンと音を鳴らした。
「ああ――」
 ぼくの、ぼくたちの部屋のドアををそっと開ける。空っぽになったそれと、左手の薬指が全てを物語っていた。ぼくは、それがなんだったのかを今、今さら、思い出した。
 ほんの些細なことなのだ。それは、まるで雀が車にひかれるように、虫が踏みつぶされるように、そんな風に、本当に些細で、けれども少し悲しい、そんなことで、それは、ぼくにとっての世界の終わりだった。
「ぼくが、きみが、何をしたっていうんだ」
 きみは桜が綺麗に咲いていたあの日、死んだ。



『きみの星を信じる』 20140714
 理解も納得もできなかった。きみがこの世から浮いていなくなった理由も、きみが俺に何も言わずにいってしまった理由も、ひどく意地が悪くて理不尽なこの世界のことも、何もかもすべて。
 きみのいないこんな世界でどう歩いたらいいのか、どう笑ったらいいのか、どう泣いたらいいのか、どう怒ったらいいのか、俺はまるで何も分からなくなってしまって、ただ、呆然ときみと見た星空の下に立ち尽くすばかりだった。
「君ってば、ほんとうに大人になれないね」
 突然、呆れたように笑う、あの懐かしい声が聴こえてくる。
「――え?」
「君がそんなのじゃあ、わたしだって安心して死ねないっていうのに。ね、ひどいなあ、君は。……ほら、今日は山羊座がよく見えるでしょう。これが最後の足場だよ、わたしの最期の奇跡だ。昔から君は、独りじゃないし……もう、ひとりで歩かなきゃいけないよ。そう、わたしがいなくてもね」
 ずっと焦がれていたきみの声と姿に全身を疑う。ああ、そうか、ついに頭までおかしくなってしまったのだ、そんなことをぼんやり考えながら、それでも、どうしたって俺はきみの声に心を傾けずにはいられなかった。
「……なあ、もう、一緒に星は見れないのか?」
「そうだよ。でも、ばかだねえ、君は。星を一緒に見る相手はさ、もう君の周りにたくさんいるじゃないの。君は失ったものばかり数え過ぎだよ、君には見えないの? この青い鳥の羽、温かいアップルパイ、そうさ、見えてないふりをしてるんだ。この満天の星空だって、ほんとうは、綺麗だなんて思ったこと――ないのでしょう?」
「……そうだよ。おまえがいなかったら、意味なんて――どこにもないんだ」
「とんだ盲目さんだね、分かってよ。君、ねえ、恋と感傷を一緒くたにしてはいけないよ。君がわたしに抱いているそれはもう……これ以上は、分かるね」
「だって、じゃあ、俺は? 離してしまったんだ、なあ、俺はおまえのこと、ねえ、離してしまったんだよ……ただ俺は……そうだ、明日また会いたかったんだ……!」
「わたしだって君に、さよなら、ばかりじゃなくて――また明日、って言いたかったよ。でもね、毎日汽車はわたしを乗せて遠くへ連れていこうとしていたんだ。わたしは、わたしの……この、今だって震える手を、きみに握ってほしかった!」
 きみの手を握ろうと思わず伸ばした手は、ふっと空を掴んだ。おかしいな、今、きみがここにいた気がしたのに。そんなことを滲む両目で星空を仰ぎながら思う。
 もう、分かっているふりをするのはやめよう。きみがいなくなった理由も、きみが何も言わなかった理由も、この世界のことも。理解も納得もしなくていいことに、今さら気付いた。
 何回も今さらを繰り返して、俺は、だましだましでもいい、歩いて行こうと決めた。きみがいないこの世界で。きみがいないこれからの未来を、ずうっと。
「ああ……今日は星が、綺麗だな」
 望遠鏡を担いで、大切なのだとやっぱり“今さら”気付いた人たちのところへ向かう。今日くらいは言おう、絞り出した声で、ありがとう、と、一緒に星を見よう、を。
 口の中できみに、愛していました、と呟く。この気持ちに名前を付けるとしたら、それはきっと恋でも感傷でもなくて、愛だ。きっと、愛だったのだ。山羊座がひっそりと輝く空の下で、俺は少しだけ笑い、そしてもう一度歩き出した。



『ハート・ライク・ヘヴン』 20140712
 わたしの夢は何だったのか。それを海の底にいた頃は、目の前をチョウチョウウオが泳いで行くかのように、ひどく鮮やかなものとして思い出せたはずなのに、今ではその欠片すらも思い出すことができなくなってしまった。
 ひっそりと海底で生きていた方が、わたしは幸せだったのだろうか。痛みも涙もない毎日を過ごしていた方が幸せだったのだろうか。もうそれすらも、わたしは分からなくなってしまった。
「おかしいなあ……。海ってこんなにも暖かかったっけ」
 ゆらりゆらりと打つ波に身体が包まれる。懐かしい潮の香りと、肌に心地の良いあぶくたちに「ただいま」のキスをした。わたしはやっぱり海が好きだ。愛しい王子様も海のことが大好きだったような気がする。さっきまで一緒にいたひとのことすら、もう想い出せないのも、魔女の魔法のせいなのか。
「いや、わたしが忘れたいだけなのかもしれませんね」
 あぶくになりかかった命を少しばかり愛おしく思う。馬鹿みたいに恋をしたこの命を、ほんの少しばかり。
 名前すらもう思い出せないけれど、あのひとはわたしのことを覚えていてくれるのだろうか。たとえば、海がいつもより澄んでいる日や淀んでいる日に、わたしの手のひらの温度ぐらいは思い出してくれるのだろうか。
「なんだったかな、あなたの名前」
 あなたの顔は、ぼんやりだけれど憶えている。わたしが海に身を投げた後、あなたは何もかもわかったかのような表情で海のあぶくを眺めていた。
 私はきっと忘れない。名前も顔も、もうはっきりとは想い出せないあなたを愛したことを。夢を忘れてまで愛したあなたのことをずうっと、永遠に。ああ、そうだ。わたしは、幸せなのだ。
「あなたのことを愛して、いました」



『babble』 20140720
「あのメアリーのどこがいいって言うのよ? ねえ、あんたはさ?」
 栗色をしたくるくるの巻き毛を揺らしながら、目の前の彼女はぼくと……ぼくのメアリーを馬鹿にしたように笑った。彼女はいつもこうだ。ぼくがメアリーのことを話したり、褒めたり、考えているような素振りを見せるたびに彼女はこんなことを言ってくるのだった。
「どこがいいかだなんて……そんなの、ぼくには分からないよ。でも、ぼくはメアリーのことを愛しているし、メアリーもぼくのことを愛している。これだけは確かなことさ」
「ね、あんたがあの子のことをどんなに愛していたとしてもさ、あの子があんたを愛しているとは限らないんじゃないの?」
「いいや、そんなことはない。あっちゃいけないんだよ。分かるだろ……ぼくと、あの聖母のようなメアリーは運命で結ばれているんだよ……」
「あんたってほんとのほんとに、馬鹿!」
 そう話しているうちにも、ぼくの優しいメアリーはミルクをたっぷりと注いだ器をふたつほど抱えてぼくたちの前に姿を現した。器のひとつはぼくに、もうひとつは意地悪な彼女に差し出していつもの穏やかな、まるで聖母のような笑顔を見せ、そしてぼくたちの柔らかな髪をそっと撫でた。
「さて、これでいいわ。ねえ、かわいこちゃんたち?今日のおやつはクッキーとチーズ、どちらがあなたたちのお気に召すかしら?」
「それはもちろん、チーズだよ、メアリー?」
「そうね、クッキー。もちろん分かっているわ。じゃあ、楽しみにしていなさいね」
「メアリーって、あんまりぼくの話を聞いていないよね。そんなところも好きだけれど。でも、まるでぼくが何を言っているのか分からないみたいだ」
 そんなことをぽつりと呟けば、意地悪な栗色はひどく冷たい表情をしてこちらを一瞥した。そして目の前のミルクに舌を少しつけた後、やっぱり氷のような声色でぼくに向かっておかしなことをいくつか言った。
「そりゃ、分からないでしょうよ。だってメアリーって生き物は〝ヒト〟ってやつでしょ? あたしたちとは違うもの、話す言葉だって違うわけよ。あたし、あのメアリーが何を言ってるのかだって、さっぱり……ちょっとくらいしか……分からないし」
「仕方ないよ、君は〝ヒト〟じゃなくて〝ネコ〟なんだから。でも、ねえ、ぼくは違う。ぼくはヒトなんだから、メアリーがぼくの言ってることを分からない理由はないだろう? ぼくだってメアリーがなんて言ってるか、ばっちり分かるんだから」
「……冗談でしょ」
「本気さ」
 ぼくたちがそんな馬鹿げた会話を続けていると、メアリーが小さな袋を抱えてこちらに戻ってくるのが見えた。ぼくたちのところに戻ってくるなりぼくの愛しいメアリーは、袋から魚の形をしたクッキーを取り出し、ぼくに差し出しながらこんなことを言って、また、いつものように笑った。
「おやつの時間よ。わたしのかわいい子猫ちゃんたち!」



『詠み人知らず』 20150314
 「秘密があるの」。きみはよくそう言って笑っていた。髪を細い白色のリボンでゆるく三つ編みにしていたきみ。春のはじまりみたいな匂いがしたきみ。雨が降ると傘をくるくる回したきみだ。まだ、笑い声も憶えている。葉が揺れるみたいな、優しい声。手の感触も、髪の色も、歩き方も、困ったときの癖だって憶えているのに、ぼくにはひとつだけ、たったひとつ、想い出せないことがある。きみの、顔だ。まるで最初から知らなかったかのように、きみの顔には深い霧がかかっている。ぼくは確かにそれを知っているはずなのに。
「わたしはね、今、秘密を編んでいるの」
「きみが編んでいるのは髪、三つ編みだろう? おかしなことを言うんだね」
「そうとも言うかもね。三つ編みも秘密も、似たようなものでしょう? 両方、〝みつ〟がつくもの」
「ばかだなあ」
「でも、秘密があるっていうのはほんとう。あなたには言わないけれど、許してね。だって、隠し事がある方が……ほら、魅力的って言うのでしょ」
「ぼくの他に好きなひとでもいるのかい」
「さあね。でもちゃんと、捕まえておいて」
 きみの言う秘密が何のことなのか、なにか大切なことなのか、興味はあれど、ぼくには知る術がなかった。きみと一緒に夏の海、秋の風、冬の空に触れていく内に、ぼくの〝きみの秘密〟についての興味は薄れてゆき、何となく、「秘密があるの」、きみのその言葉は、きみの口癖のようなものなのかもしれないと心のどこかで思い始めた。それはきっと、きみへの興味が薄れたことと同等で、いつかどこかでぼくは、きみを隣に捕まえておくためのこの手の力を、そっと緩めてしまったのだ。
「春がくるわ」
「うん」
「また本を読んでいるのね。そこの林檎、食べたいから取ってくれる?……ありがとう。あなたもどう?……そう。わたしね、秘密があるの。……あなた、もう、わたしを愛していないのね。ああ、聞こえてないわ。やっぱり、無理だったのかしら。そうだったのかしら?……それ、読み終わったら……」
「ああ、ごめん。何か言った?」
 あの、春のはじまりみたいな日、風がきみを連れ去った日。ぼくは一日中ずうっと本を読んでいた。ぼくの心がきみからいちばん離れた日だった。きみが隣でなにかを言っている気がしてぼくは顔を上げたけれど、それももう、遅かったのだ。顔を上げたとき、ぼくの前には大きな樹と、その枝にかかる白いリボンしかなかったのだから。
 その大きな樹からは、やっぱり春のはじまりみたいな匂いがして、葉が揺れる音は何となくきみの笑い声に似ていた。ただ、「秘密があるの」。その声だけはもうぼくには聞こえなかった。白いリボンを指に絡めながら、ぼくは大樹の前で、確かに恋が落ちる音を聴いたのだ。そこにきみが食べかけたあの林檎でもあったのなら、ぼくは救われたかもしれないのに。きみのどんな表情も、今では全く想い出せない。それはきっと、きみが消えたあの春をぼくが憎んでいるからなのだろう。



『アンドロメダに恋をしたから』 20150629
 瞼を持ち上げるとそこは、銀河の果てだった。気が付くとおれは、惑星も星の海も押しのけて、何処までもぐんぐんと昇っていくエレベーターの中に座っていた。そんな得体の知れないエレベーターの外が、ほんとうに銀河の果てなのかどうかだなんて、本当は誰にも分からないというのに、このときのおれは〝ここが本当のほんとうに銀河の果てなのだ〟と信じて疑うことをしなかった。
 それは何故だったのか、理由は考えずとも分かった。おれの向かいにいつの間にだか座っていたきみが、ふっ、と和やかな笑みを浮かべながらこちらへ向かって、こんな風に言ってきたのだから。
「ね、銀河の果てだよ、君。わたしたち、こんなところまで来てしまったね。どうして君まで来てしまったの?……わたしだけでいいんだよ、ここに来るのは」
 どうしてなのか、きみがおれの前にいることが当たり前のことのように感じて、おれはなあなあの返事を宙に浮かべた。 時々、隕石がぶつかる音以外は音らしい音も立てず、ただただ上へ上へと昇っていくおかしなこのエレベーターは、一体何処へ向かっているのだろう。そう思ってきみの方に顔を向けてみれば、きみも同じことを考えていたのだろうか、ひどく哀しそうな表情を浮かべた。
「……わたしは昇っていくの。このエレベーターと一緒にね、君は賢いからそれがどういう意味だか――もう分かるだろう? それとも、ね、分かりたくない?」
「このエレベーターは天の川に向かっている、とか? なあ、そういうことだろう」
「ばかだね、分かっているくせに。もっとだ、もっと――ずっとね――何処までもさ」
「じゃあ、俺も行くよ、ずっと……。ここじゃあどうせ、降りられない」
「いいや、降りるんだ。次、あの……見えるだろう? あの星に着いたら、君は降りなければいけないよ。ここにいてはいけないんだ。わたしはいくよ、タイタンよりももっと遠くへ――」
 心臓がどくどくとやかましく鳴り響いた。もうひとつまばたきを重ねたら、あの、おれが降りなくてはならないだとかなんとかいう星に着いてしまう気がした。そして、実際のところ、おれの予感は当たっていた。ぱちぱちと瞼を重ねたその瞬間、エレベーターは枯れた星のすぐ手前まで来てしまっていたのだから。
「さ、降りて。走って! 早く!」
「待って、なあ、きみも行こう。きっと上手くやれるさ、ねえ、この手を掴んで一緒に行こう。帰ろう、きみは、俺と……なあ!」
「だめだよ、呼んでいるんだ。わたしのことを、カシオペアもサソリもケンタウロスだって……もういかなきゃ、ね。君とりんごは食べられないんだ。ありがとう、君。もう振り返らないで、さあ、走って!」
 きみに強く背中を押されたその一瞬で、おれは戻って来た。戻って来てしまった。小さな、ひどく小さな四畳半ほどの小惑星に。ころころと手から滑り落ちたりんごを眺めて、すべてを悟る。
 きみがいないことが当たり前になる今日が、今始まった。




『きみとぼく、わたしとあなた』 20160604
 ひとりきりでおいでね。
 その心、ひとつだけでおいで。
 きみの手のひらにはぼくのたましいがあるだろう。
 ぼくの手のひらにはきみの心があるように。
 また、会えるかい?
 きっと、また会えるだろう?
 ひとりきりでいくよ。
 ひとりきりでおいでね。
 この心、ひとつだけ。その心、ひとつだけで。
 また、夢で会えるように。

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