見出し画像

④私の弟

【私の弟】
 母は9人兄妹の長女で、母の死後も心配した兄妹たちが、何かと気にして頻繁に家に来てくれていました。
そしていつも何かを深刻に話していた。
この時に母には沢山の兄弟が居ることを知ったけど、幼い私には数が多すぎてハッキリ言って訳が解らなかったなかった。
面白いおじちゃん、優しいおじちゃん、きれいなおばちゃん、意地悪なおばちゃん(これぐらいの認識しかなかった)
母がなんで急に死んだのか理解できているようで理解できていなかったし、だからお腹の中に居た弟が無事に生まれていた事も知りませんでした。
「弟」が何であるかも理解ができなかったと思います。

叔父と叔母達は話し合いを重ねていたのでしょう。
父に私と兄、乳飲み子の3人を抱えて仕事をしながら育てていく事が出来るとは思えない・・・大変な事になった・・・どうしたらいいのか・・・
後でおばあちゃんに聞いた話では、
(①3人とも父に任せて親戚はノータッチ)
(②3人とも施設に入れる)
(③弟だけ養子に出す)
(④弟を親戚で育てる)
(⑤兄だけ元の家族へ)※複雑な事情あり
主にこの4択で話が揉めていたそうです。
きっとそんな話し合いが何度もされたのでしょう。
結果、生まれたての弟は比較的裕福でとても優しい叔父夫婦にひきとられ、
神戸で新しい人生が始まりました。
私はその先の混乱の中で、弟の存在を知らないまま時間が過ぎて行き、
弟は親戚の叔父さんの子として神戸の従弟になりました。
私は暫くの間、この従弟が自分の弟は知らずに、親戚の集まった時はいつも仲良く、時には喧嘩をしたりして遊んでいました。

約50年後の今でも「私は姉だ」と言う事も出来ず、告げることが正しい事なのかわからないまま、親戚付き合いもほとんど途絶えて現在に至ります。
弟はとてもやさしい人の様なので、幸せにいてほしいと思っています。


【礼子さん】
 昔あるあるの話です。
母の兄妹たちは宮崎県から集団就職で愛知県や神戸に行き、それぞれが理容師なったり、美容師になったり、寿司職人になったり、大工になったり、
トヨタで勤務したりして独立していました。その中でも母の姉妹の礼子さんは理容師で、小柄で綺麗でかわいくて、優しくてお気に入りの叔母さんでした。
ある日、お絵かきが好きな私は礼子さんに女の子の絵を描いてとお願いをして「上手くないよ?」と言いながら書いてくれた落書きが、子供の私にはドスンと胸に刺さり(ベルサイユの薔薇のようなこってりした少女漫画風)
こんなすごい絵が描ける人に初めて会ったと思い、礼子さんにもっと絵を描いてとせがんで広告の裏を集めてはしつこく絵を描けとせがみ、礼子さんにどんどん執着しました。
 小倉から住んでいる愛知県に帰ってしまう時は、新幹線のドアにしがみついて「行かないで~!行かないで~!おかあさ~ん」と早くもお母さん呼ばわりをして大泣きをし、車掌さんや周りの人をもとても困らせていました。

26歳の礼子さんは父と私達兄妹、特に兄を不憫に思い、ある決心をします。
(この子たちを私が育てようか・・・) 

小学2年の夏休みに礼子さんを中心に、母方の親戚を頼って私達一家は
北九州の小倉から愛知県の三好町(現在みよし市)という所に引っ越しする事に。

礼子さんの善意と愛に満ちた行動で、私達の育ての親になり・・・・
そしてその後、一生不幸になります。

育ての親の礼子さんには心から感謝しかないけど、
今の私がもし過去に戻れるなら
「自分の幸せだけを考えて、私たちに情をかけては絶対に駄目です」
と真剣に説得して止めると思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?