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日記

映画「Don't Look Up」を観た。
2人の天文学者が地球に接近しつつある彗星を発見し、このままでは人類は滅びると説くが、マスコミも大統領も真面目に取り合ってくれず……といった内容のブラックユーモア映画。
とにかく皮肉だらけの映画で、こういうろくでもない人いるよね、というようなキャラクターが次々登場するし、大衆はいちいち2派に分かれたがって、隕石は存在しない、いや存在するだとかでわあわあ騒いだりする。
科学的裏付けがどれだけなされていようと、他人にものごとを信じさせるのは難しい……というのは現実でも2020年以降飽きるほど見てきた光景だ。

僕も大学で生物学をかじった者として(たとえそれが語るも恥な大学生活だったとしても)科学を信じている。信仰していると言ってもいい。
しかしどういった根拠で信じているのか問われると、それは簡単には言い表しがたい。自分よりはるかに頭の良い人たちが発見したことだから? 論文には査読システムがあるから?
例えば、「DNAなんて本当は存在しないんじゃないの?」と聞かれても、不勉強な僕はそういうシーンで求められている簡潔で分かりやすい反論はできないだろう。だけど、その問いはハエから取り出したDNAをゲルのプールで泳がせた実験や、発生学、分子生物学その他もろもろ学んできたことを否定することになる。
思うに科学を信じる根拠とは、そういった経験が揺るがないものとして存在するゆえに、それに基づいて事物が検証可能であると考えるから……なんだか頭がこんがらがってきた。
要するにそれって自分の経験を否定したくないだけ? 僕が学んだことの礎に人類科学史の積み重ねが存在しようと、他人にとってはただの他人の経験でしかないだろう。だって他人なんだから。

個人スケールの話においても、他者に自分の価値観を理解してもらうのは難しい、とつくづく思う。
それは逆も然りで、僕は自動車の運転で過剰にスピードを出せる人の気持ちが分からなかったりする。
いや、理解できないわけじゃないけど、車を運転するたびに緊張で脚が痛くなる僕には到底たどり着けない領域に思える。
人間は安全と思う範囲でスリルを楽しむことがあるみたいで、自分も料理にタバスコを沢山かけたり、浴槽で2分以上潜ってみたりする。
運転に慣れた人たちは、自動車に乗ることに危険はほとんどなく、多少スピードを出しても事故らない……という、僕とは異なる(主観的な)安全の範囲を持っており、それは僕が辛い料理を食べることとさして変わらない、と考えればなるほど理解できるかもしれない。
難しいのは、外から見れば非合理なことでも、本人にとっては合理的なことである場合だ。
かの数学者ピタゴラスは、晩年宗教に傾倒し輪廻転生を説いたというが、一見非科学的なそれも、科学によって「死」という逃れられない存在を見出したピタゴラスにとっては、自身をその恐怖から遠ざける合理的な判断だったのかもしれない。
↑これは興味本位で履修した「物理学入門」の講義で聞いたうろ覚えの話(10年前)(たしか落とした)なので信じないでください。

僕が無職をやっていることに関しても、他人にとっては人生を浪費する非合理な行為と思われるだろうし、僕もそう思う。
就労を拒む気持ちに合理性は無く、むしろ自分から合理性を失わせることで正気を保つという矛盾した精神行動に縋っている。
「Don't Look Up」の劇中で、人類最後の日を目前に家族と愛や絆を確かめ合う登場人物を見て、「自分も今日が人生最後の日かもしれないと思ってがんばろう!」と思うわけでもなく、来週自動車事故で死ぬかもという確率を考慮しても、自分の人生がこの先数十年続く可能性は高い、と合理的に判断して、今日も自堕落に過ごした。

……もっと車の運転した方がいいかもね。


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