[わたし]と水簾さんの[おにぎりさん]

京懐石の水簾さんに訪れまして、
(中略・・・)
食べきれなかった白米をおにぎりにして
おみやにしていただきました。

さて、翌朝。
朝のもろもろ用事を終わらせて
楽しみに迎えた[おにぎりさん]タイム。

はて、この
可愛くサランラップに包まれて
和風なマスキングに巻かれて
お店のシールが貼られた
[おにぎりさん]。


何気なく、ぱくっといただくのは
しのびない。。。

合わせる飲み物・・
良さげな煎茶を用意して小洒落たカップに注いで。

[おにぎりさん]は小洒落たお皿にのせて。

ぱしゃり。


そして、何気なくなんて、
仕事しながらなんてとんでもない。

一日の望みを思い描きながら、
一口、一口味わう。


と、[おにぎりさん]を食したことはこのあたりで。
普通のおにぎりと違う、この[おにぎりさん]。


ふと、思ったのだ。
なんで、こんなにも扱いが違うんだろう??


[おにぎりさん]はおにぎりの品格として高い。
かけられた手間が違う。

同じおにぎりとて、[おにぎりさん]はまったく違う。


これを人間とした時、
わたしは、おにぎりなのか[おにぎりさん]なのか。

それによって、人からの扱いが変わるのだということが
・自分を丁寧に扱いなさい
・目の前の人は自分の鏡
・人を変えるのではなく、自分を変える
ということに、きれいな線で繋がった。


[おにぎりさん]として存在するから、
[おにぎりさん]として扱われる。

おにぎりとして存在すれば、
おにぎりとして扱われる。

ただ、単純なこと。


さぁこの瞬間から
[おにぎりさん]として、
何よりもわたしを愛でで生きていこうと思った朝。

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