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母の給与明細
今日1/9は母の命日である。
14回目となるその日を迎えてなお、鮮明に思い出すのは、母の通帳に並んでいた、数字のことだ。
母の通帳に並んだ数字
倒れてからわずかで亡くなってしまったことで、各所への連絡や、葬儀から納骨など諸々の『やらねばならないこと』を、順にこなすだけで精一杯だった。
幸いとても几帳面だった母のおかげで、様々な手続きはスムーズだった。(他と比べたことはないが)
まだ気が張っていたこの頃、父とふたり、故人となった母の通帳を開いた。後にも先にも見たのはこの時だけ。
当時、私も妹も既に仕事をしていたし、父も現役だった。母も毎日パート勤めをしていた。生活費をとりまとめていた母は父の給与を把握していただろうけれど、それ以外の3人は、幸せなことに、母も含め誰がどのくらいの給与をもらっているか互いに知らなかったし、知る必要がなかった。個々で自由に使っていたからだ。
おかあさんは、これだけの給与をもらうために、
あんなに一所懸命に働いていたんだね。
でも毎日本当に楽しそうにしていたよね。
父と私はどちらからともなくそう口にして泣いた。
59歳だった母の通帳に並んだ毎月の数字は、社会人10年に満たないわたしの給与の、半分くらいだった。
そして、丁寧に毎月記帳され、ここ何年かはほんのわずかしか使わず、最後の行はたくさんの額になっていた。
まるで生涯の給与明細のようだった。
父には言えなかったこと
通帳を見て、父よりも衝撃を受けたのは私だ、多分。
大学生の頃、とある出来事から、父とは半ばケンカ腰で家を飛び出た。母の熱烈な推しで1か月英国留学し、その後一人暮らしを始めた。全ての留学費用と、卒業までの2年弱、毎月の家賃を払ってくれたのは、母だった。
毎月の家賃は、通帳に並んだ金額の、約半分だった。
わたしは、アルバイトもしていたけれど、母にそのお金を返すには至らず、それでも母は、好きなことやんなさいよ、といつも応援してくれて、遊びに来てはごはん代にお小遣いまでくれたのだった。
働くことが好きだった母
母は「働きたかった」のだと思う。
女子の大学進学率が20%未満だった時代に、四大の英文科を出て商社に勤めていたらしい。
同じマンションのペルー人女性にスペイン語を習ったり、近くの公民館で料理を教えたり、いつも家はピカピカで、食事はいつも出来立て。子どもの目から見ても、器用で色んなことができる人だなあと思っていた。
どうしてお仕事やめたの、と聞いたことがあった。
「あなたが生まれたからよ」
と答えた。びっくりして母の顔を見たけれど、別に怒ったようでも、がっかりしたようでもなく、笑っていた。
でも母はやっぱり、働きたかったのだと思う。
3つ下の妹が小学生になった翌年、母は事務のパートをはじめた。朝早くから夜遅くまで働く”昭和のサラリーマン”だった父は、反対したのだと言う。家のこと子供のことを放ったらかしにするな、とか言ったんだろう。
母の”真面目でちゃんとした”性格もあり、働き始めても私たちの生活はなんら変わりなかった。(母になった今ならそれがどれだけの労力を割いたことかわかる)
最初は朝からお昼まで。私たちの成長(≒帰宅時間の変化)に伴い、15時、17時、と少しずつ延ばしていったように記憶している。
誰のために働くのか
母は、初めて入ったパートのお給料で、わたしたち姉妹にケーキを買ってくれた。いたずらっこのような表情で指を3にしていたから、3万円だったのかなぁ。
その後、私たちは中学高校大学と進学した(私に至っては浪人もさせてもらった)。家のローンやら、生活費は父の収入で賄っていたと思うけれど、ときどき、最初のケーキの時と同じ顔をして、多感な年齢の二人姉妹を有形無形で何かとサポートしてくれていたのは、間違いなく母のポケットマネーだ。
母は誰のために働いていたのだろうか。
多才なスキルを持て余し「働きたかった」自分のため?
家計の足しに?
娘たちへのお小遣いのため?
どれも、そうだったのだと思う。
働くって、自分のためだけに、はできない。
母が亡くなって11ヶ月後に誕生日を迎えた父は、定年退職を選んだ。働く理由がなくなったのだと。
仕事の先には必ず誰かがいる。
共に働く仲間、パートナー、子どもたち、etc.
その誰かを浮かべる順番は人によりさまざまだ。
父にとってその1番は、「子どもたち巣立った後の妻との暮らし」のためだったんだな。
母に似ず、全く几帳面ではないけれど
母に似て、働くことは大好きなわたし。
二度の出産後、いずれも1年経たぬうち仕事に復帰した。
給与がいくらとか、制度が待遇がとか、
もちろんそういうことを全く無視はできない。
毎日それなりの時間つまり命を使うことだから、
なんでもいいとは言えない。
だけども、
わたしが仕事をすることで、誰かが笑顔になる
できなかったことが、できるようになる
それによってさらに、新しい挑戦に向かっていける
それが、わたしにとっての働く意味だ。
子供を預けてまで働く意味はあるの?とか未だに問う向きもあるけれど、意味はあるのだ。
仕事をしている時には、仲間やお客様へ。
仕事をしていることで、子どもたちへ。
それらを受けて、わたしへ。
結果として、笑顔や感謝を循環させたい。
わたしが働くことは、わたしをつくっている。
だから私は、今日も働く。
(追記)今日、オーダーで父のもとへ届けてもらったお花をこちらに。緊急事態宣言で、お墓参りも、お花を買いにも諦めていたとのことで、喜んでくれて良かった!
皆さんからのサポートは、子どもたちと新しい体験をしたり、新たな学びのために使わせていただきます。