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ハンナ・アーレントを想う

変化が常態化したような1年だった。
急激な環境変化(メンタルケア用語でいう、ハイパー・チェンジなるもの)には慣れていて、わりと乗りこなせるタイプの私でも、今年は、思考停止したり深めたり、楽観したり悲観したり、まあまあ忙しい上下があった。

そんな1年を振り返りながら思い出したのは、アーレントだ。

ハンナ・アーレントとは

『全体主義の起源』の著者。
第二次大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、
アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人。

ナチス戦犯アイヒマンの裁判に立ち会い、
ニューヨーカー誌にレポートを発表したことで、
世界が大きく揺れる。

その中で、自らの信念を貫き、
何者にもぶらされず、主張し続けた人。

ナチスに抑留され、
死を意識するほどの体験を持つ彼女が、
ナチス戦犯を目の前にして、
「事実を理解すること」と
「赦すこと」の違い
に気づき、
それを世に伝えるために向き合い続ける。

ユダヤ人の中にナチを手引きするものがいた
という事実を冷静に見つめ、
もし、彼らが別の決断をしていたなら、
600万人の犠牲者は出なかったもしれない

という考察を提示した。男性の「友人」たちは、感情によってそれを否定し、彼女の存在すら認めないと憤った。

「思考することDenken/ Thinking」

映画『ハンナ・アーレント』の最終幕では、約8分にわたり。思考すること、についてのアーレントの講義が展開された。

covid-19に翻弄される日々の中で思い出したのは、この講義シーンだった。

“悪の凡庸さ”とは、
自分で軸を持たず、
思考せず、
判断を放棄し、
命令を善とし服従した行動を
遂行する人たちが
引き起こした、
引き起こすであろうということ。

自分の軸を持つ

善悪の基準、美醜の基準。
軸となるものを持たなければ、
人は、きっと、残酷なことも出来得るのだろう。

歴史的巨悪ですらも、
平凡な、悪の凡庸さが引き起こした。
その解釈は、何と無く、
わかるような気がする。
それが、傲慢さとは異なるということも。

***

当初は中国武漢での発生を受け、かの国が悪者に。
その後は政府や政策を悪者に。

いや、誰かを悪にして、思考停止するのは、楽だけど、私たちは、このcovid-19と共存しながら生きていかなくてはならないのだ。

こどもたちに残す世界は

誰も彼も正義を振りかざして、
誰かを悪者にして、
挑戦者を嗤う世界でいいはずがない。

与えられた環境を嘆いたとて、それは、どこかの一端では自分が選んだ環境でもあるのかもしれない。

悪の凡庸さを再生産しないために、
自分で軸を持ち、思考し、判断し
命令を悪とし、考えなく追従しない人

でありたいなぁと思う年末。

※子どもたちとの在宅のすきまにて、雑駁な記述になってしまったけど、なんとなく年末に残しておきたくて。



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