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王様と暦のおはなし。

 以前、ツイッターで「お金」についてこんなつぶやきをしたことがあります。


 同人誌即売会を例に考えてみます。
 お客さんの心の中には「この作品萌える!」とか、あるいは「この作家さんを応援したい!」などの思いがまず先にあって、そこについている値段は、決してそれだけで独立しているわけではありません。
 持ち帰った戦利品を「この本は〇〇円の価値がある……」としみじみ眺めたところで、ではそれが他人にとって同じだけの価値があるのかというとそんなことはなく、むしろ興味の無い人からすればタダでも要らないシロモノだったりします。
 ニュースでは「一日で売り上げが何百万円!」などと報じられ、世間の人はその金額の多寡だけを取り上げて騒いだりしますが、実際その本の内容についての興味(尊敬の念)は無いといっていいでしょう。一歩マーケットの外に出ると、世界は違うルールによって動いているということがわかります。

 ともあれ、その特殊な場所の中では、お金はあたかも魔法の力を帯びたかのようにその場の秩序を作り変えます。マーケットとは、本来は目に見えない尊敬という感情が「貨幣」という形で見えるようになる(数量で表示される)不思議な空間なのです。

 民俗学者の折口信夫という人が提唱した「まれびと信仰」という考え方があります。
 これは、祖先の霊が住む「常世」とよばれる別世界(冥界)から、ある特定の時期・場所に帰還する来訪者(祖霊=神さま)が、共同体に祝福を与え害悪を持ち去る……という古代から連なる思想のことです。
 この神さまが「特定の時期や場所に(稀に)帰還する」という機会は「ハレの日」とか「祭り」などと呼ばれて現在でも各地の習俗に残っています。

 そのうちのひとつ、「節分」に類する行事では、祖霊が鬼の姿をまとって集落に現れ、手にした刃物で子どもたちの生皮を剥ぐフリをして脅します。
 その後はよく知られているように豆まきなどで追われて村の悪疫を背負い退場していくのですが、この節分の鬼が「まれびと」にあたるわけです。
 彼らが生皮を剥ぐことは「生まれ変わること」を意味しており、村人たちは冬(死)から春(再生)へと移り変わる季節の境目(節分)に、新たな年の豊穣や集落の人々の健康を祈るのです。

 この「まれびと」のお話、先に書いたお金の話と一見関係が無い様に思えますが、じつは構造がとてもよく似ているのです。
 お金はもともと形の無いもの(尊敬という感情)であり、「市場」という特別な時間・場所においてのみ貨幣として姿を現し「数量」という新たな秩序を生み出します。
 お金にはこのような不思議な性質があるのですが、つまりこれは節分のナマハゲと同じであると考えられます。

 「霊魂」も普段は姿など全く見えないものとして扱われていますが、でも「どこかに居る」という感覚は常に村人の中にあります。
 そして毎年節分の日になると、恐ろしいお面と蓑笠の扮装で現れ、鉈をふりまわす最強の存在になります。誰もそのナマハゲと戦おうなんて思わない、それくらい強いのです(ちなみに豆まきをして追い払うのは戦っているわけではなく、数を数えさせて悪霊を払うというおまじないの類だと言われています)。
 ナマハゲは、その村の日常のルールでは説明も制御もできない存在であり、すなわち共同体の外部(冥界)からもたらされた不思議なパワーが、その日だけ霊魂に作用してナマハゲとなり、村人たちから見えるようになっている、ということなのです。

 節分と似たような習俗は、日本のみならず農耕を基盤とする世界各地の文明共同体でもみられます。
 ハロウィンやクリスマスなどがその例として挙げられるのですが、もっと昔の古代ギリシャやローマ帝国でもそれに類する行事が広く行われていたようです。

 今から四千年以上も昔、古バビロニア王国では、なんと王様が毎年「殺される」という行事があったとか。
 とは言っても本当に王様本人が殺されるわけではなく、「仮の王」と呼ばれる身代わり役が殺されるんですね。
 しかしこの仮の王、名前だけではなくて本当に一週間王位に就くのです。
 奴隷や賤民などから選ばれた仮の王が、実際に宮殿に入って酒池肉林の限りを尽くし、そうして好き勝手をやって……一週間後に処刑されます。その後、元の王様が即位してまた一年、次の祭事まで国を治めるという繰り返しです。

 なんでこんな不思議なことをするのかというと、共同体の王というのは祖霊(神)の力を受けとる「装置」のような存在であり、古代社会ではその装置が存続することが共同体に永遠の豊穣をもたらす、と信じられていたからです。
 物理的に人間である王の命はもちろん有限なので、実際に王が死を迎えその子が後を継いだとしても「一時的に死んだ→生まれ変わった」ということにして、祖霊のパワーを切れ目無く享受しようとするわけです。
 これは譲位などで代替わりをしたときにも同様で、古代社会においてしばしばその国の歴史が王の在位期間と共に記述されるのは、「生まれ変わり」によって豊穣が永遠に続くようにとの願いが込められているからなのです。
 さらには王の生命力(若さ)はそのまま神のパワーの強弱を示すと考えられたので、年ごとに再生(=回春)の儀式を執り行なうことにより、常に強いパワーを受け取ろうと昔の人たちは考えたのではないでしょうか。

 また古代人たちは、冥界(=神=祖霊)の新鮮な豊穣の力を受け取り、溜まった「ケガレ」は王を殺すことによって冥界に返す、というサイクルを、「太陽」の動きにシンクロさせることによって、共同体が永遠に発展することを願っていました。
 王の時間が、太陽などの天体と深く関連付けられた「暦」として表される理由は、この点にあるとも考えられます。
 人の手の届かない場所にある太陽は、日ごとあるいは季節ごとの周期をもち、そこから死と再生の象徴とされ、冥界に存在する神とも重ねられました。太陽信仰は古代世界において普遍的な思想であり、日本の神話でも主神はアマテラスという太陽神とされています。

 
 さて日本における「元号」は、天皇(=王)が在位した時間を示す単位ですが、西暦などの連続した時間と違い、いつ改元されるのかは当然予測できるものではありません。
 ゆえに改元の前後では、予め作成しておいた文書などの変更を余儀なくされたり、また西暦との二重表記がときには混同を招いたりするなどのケースが起こりえます。また学生さんが日本史の勉強をする際など、いちいち細かい年号を覚えるのも大変です。
 正直なところ面倒なので元号は廃止して西暦に一本化してほしい、と思う人も現代では少なくないのではないでしょうか。

 先日の新元号発表の際にも、多くの人が「令和」という名称について好意的に受け止める中で、先に挙げたようなマイナス意見もいくつか見かけました。
 中には「連続した時間を元号で断ち切られることは権利の侵害だ」と訴える人もいて、確かにこれからもずっと続いていくであろう西暦と比べると、法則性の無い元号という暦には、私たちの生活時間が寸断されているような印象も受けます。

 しかし、私たちが「王という装置」の成り立ちを考えるとき、それはただ時間を区切っているのではなく、実際は我々の祖先が「死と再生」という儀式を通じて共同体の永遠の発展を意識していたのだということが明らかになります。
 一方、西暦が表す時間単位は聖書の黙示録に記された最後の審判によって終了するので、永遠に続くことを意識されていません。
 キリスト教などの一神教では「この世」は本当の世界に行くための試練の場であり、人生とは、いま現在かりそめの命を生きているという考えがあるからです。
 一見して連続しているように見えることが永遠を想定しておらず、ぶつ切りに見えるほうが永遠を目指しているというのはなんとも不思議なことです。
 「死と再生」というロジックは、肉体という限界をもつ容器に捉われた我々が、遠い昔に生み出してそこからずっと受け継いできた願いなんですね。

 でもそれって大昔の話でしょ? という人も中には(というか大勢)いるでしょう。今の世の中で元号が何の役にたつの? 祖霊だの王だの永遠の豊穣だの言われても、それが今の実生活にどう関わるのかまったく分からないよ! と。
 まあ確かに私もそう思います。

 
 冒頭にお金の話を書きました。
 ほとんどの人が普段まったく意識していないと思いますが、お金というのは元々「共同体の中にある尊敬や感謝の念」だったわけです。

 むかしむかし……はるか昔の物々交換の時代に、魚を取る人と稲を育てる人がお互いのスキル(職能)によって得た品を交換する際、相手のスキルに対しての尊敬と感謝がそこにありました。
 個人の持つスキルだけでは生活が成り立たない、ゆえに自分の代わりに違う作業を担ってくれるメンバーには感謝が捧げられるのです。
 それはもちろん食物の生産だけではなく、道具を作ったり家を建てたり外敵から村を守ったり、共同体を維持するための様々なスキルに広がっていきます。

 さて共同体に余剰の生産物ができると、隣の共同体との境界(村の外縁部)に「市」が立ちます。
 魚とコメだけでなく様々な物品が交換される市場では、お店の人が魚やコメやあらゆる交換物を常に並べておくわけにはいきません。
 そこで便利な道具「貨幣」が登場(出現)します。
 これはそのお店の人がどれだけの尊敬や感謝を集めたかが目に見える、とても便利なアイテムなのです。
 貨幣というアイテムを使って「尊敬」を持ち歩き、それをまた別の品物と交換(尊敬を別の店の人に預ける)できる時空、それが市場です。
 貨幣の不思議な力は、もともとは市場の中だけに限定されていたのです。
 それゆえに市場は村境という「特別な場所」に置かれます。
 逆に考えると、共同体のルールが及ばぬ境界ゆえに、貨幣を出現させたあの不思議な力(違うルールからなるパワー)に触れることが可能だったわけです。
 余談ですが、中世日本の文献には「虹が出たときに市が立てられた」という記述が多く残っています。
 昔の人にとっての市場は、現在の私たちのイメージとは違って、もっと特別なものだったようです。

 しかし共同体が発展して余剰生産物が多くなると、やがて貨幣が市場から離れて共同体の内部にまで持ち込まれるようになります。
 すると今度は貨幣自体やそれを所持することが尊敬(あるいは羨望)を集めるようになります。
 つまり個人やその人に付随するポテンシャルではなく、お金という「モノ」が人間が動かしていくようになるのです。
 これはある意味危険なことで、例えば現代でもお金のために悪事を働く人は少なくありません。
 盗まれたお金には当然ながら尊敬という意味は含まれていませんが、そんな事は関係なく(お店の人が盗品と気付かないかぎり)そのお金でもモノは買えてしまいます。誰にも気付かれさえしなければ、盗んでも騙しても殺してもかまわない、という価値観が横行する社会の恐怖というのは、我々にとっても決して他人事ではないでしょう。ドストエフスキーの『罪と罰』や、少年ジャンプの人気漫画『デスノート』などはこういう観点から読んでも面白いと思います。
 私たちの生きる現代社会は、貨幣経済によって生活が豊かになった反面、時にお金の持つ不思議な力に振り回され、安らぎを失ってしまったともいえます。
 それはあたかも、豆まきの意味を忘れたためにナマハゲがいつまでも村に留まってナタを振り回し疫病が蔓延するようなものです。

 私たちがギリシャ神話のプロメテウスのエピソードや、日本神話でニニギノミコトがイワナガヒメを追い返したお話を読むとき、そこには「冥界の力は良いことと悪いことがワンセット」という古くからの思想が込められていることに気付きます。
 英雄たちが神々の世界から「良いこと」だけを取り出そうとすると、必ずそれによる報いを受けることになっているのです。
 そして実際、それは「冥界の力」に限った問題ではなく、この世の中に存在する全てのものに言えることなのかもしれません。

 
 少々話がそれてしまいましたが、いま私たちが当たり前のように利用しているアイテムやサービス、あるいは意味がわからなくなっている昔のことなども、その本質を探っていくとそこにはすごく大事なことが隠されていたりするのです。
 それは理性によって考えることのできる種々の法則や社会道徳だけではなく、潜在意識的な部分で私たちの思考に深く深く関わっています。そしてその潜在意識は、私たちの祖先からずっと変わらず遺伝子のレベルで刻まれていることなのだと思います。
 ひょっとすると、人類がアフリカで猿から進化した頃よりもっともっと古い、生命の起源から連なっているのかもしれません。
 私たちはそういう「生命の歴史という大地」の上に立っているのだとも言えるでしょう。
 同時にその歴史は、生まれながらにしてどうしても切り離せない我々の「心」の一部なのです。
 現実的には意味がないと思いながらも、多くの人々が新年を祝ったり、節分で恵方巻を食べたり、お盆に帰省してお墓参りに行ったり、あるいはテレビや雑誌の占いに一喜一憂したりします。
 そういった行動も、我々の心がその歴史と生来的に分離できない現れのひとつなのだと言えるのではないでしょうか。

 この度の新元号の制定に際して、現代の社会生活から考えられるマイナス面だけに注目するのではなく、「なんでウキウキしてる人がこんなにたくさんいるんだろう?」というような不思議にも少し心を傾けて欲しいなあと、私はそう思うのです。

 Written by : M山