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『林檎とポラロイド』 喪失の記憶

原題「Μήλα」
英題「Apples」

アマプラで観たが、これは好きな作品。
アムネジアを扱った作品というのはいくつもあるけど、これは軽く流行しているようなので、複数の記憶喪失患者が出てくる。まずそこがユニークで、主人公だけでなく、その現象そのものを考える仕掛けになった。静謐な雰囲気からは『パーフェクト・センス』を思い出したりも。

とは言え、今作はコミカルな描写が多くあり、クスクスしてしまいながらも次第に「記憶喪失」と「プログラム」の意味が浮かび上がってくる。まあ、それ以前に作品内社会の設定が豪快というかね。スマホは出てこなくて、カセットテープがまだ使われている。電話自体も出てきたかどうかというレベルになったが、救急車を呼ぶくだりがあったので、さすがにあるのだろう。描写としては基本的に排除されている。ギリシャの車事情は知らないので、時代の設定も曖昧なまま観ていくことになる。
ちなみに、Pioneerのカーステ(死語)が出てきたりもしたね。

まあ、コミュニケーションのこともテーマに含まれているはずで、「プログラム」下の人たちは直接会うことでしか他人と会話も出来ない。そもそも「記憶喪失」前はどういう暮らしぶりだったのかは気になるところだが、ともあれ、捜索願も出されない人たちということにはなっていた。

だから「プログラム」における指示の多くは人と触れ合うためのことが多く、グラデーションはあれど、何かしらのコミュニケーションが必要なものばかりだ。そして、その本丸というか最終目的は恋愛のことになっている。まあ、男と女に限定されていたり、行きずりのセックスなど、明らかに偏った性質のものもあるので、そこからは社会の歪みや多様性の排除のことなどを考えさせられる。

そういう背景も感じながら、「バットマンが記憶喪失になって、知り合いはいないかとなるが誰もいない。しかしキャットウーマンはいる」みたいなので笑わせてくるのも楽しい。
そしてところどころで「この主人公は記憶を失っていないのでは」ということが見えてくる。そうなると「何故なのか」がやはり気になってくるわけで、彼の場合の事情がわかると「それだとちょっとキレイすぎるな」というのが率直な印象だ。この奇妙な作風には合わないように感じられたからだ。

ただし、クリストス・ニク(発音は“ニクー”に聞こえる)のインタビューでは、今作の着想についても触れられているので、なるほどなと思える。

また、ヨルゴス・ランティモスの影響も強めに感じさせるが、より内省的なのかなと思えるのは『フィンガーネイルズ』も観ているから。今作を観て、あらためて面白い作家だなと思うし、これからどうなるのかが気になる存在だ。

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