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R.I.P. to R.I.P.

いつからか、SNSで「ご冥福」を祈るのをやめた。

訃報に触れた折に死を悼み、故人の冥福を祈ることは一般的なことで、社会通念上そうするのが好ましいのも理解している。

だとしても。自分の口から言葉を出すたび違和感が強まり、どうしても喉仏が拒絶するようになってしまった。

念のため申し上げるが、私には「ご冥福をお祈り」する方を咎める意図でもなければ、貶める意思もない。本当に心を痛め、安寧を祈っている方が多くいるのを見ているし、言葉にこめる意味は千差万別である以上、語句をあげつらってどうこう言うべきではない。

ただ、私個人に限っての事実をいえば。
いつも同じ言葉で冥福を祈ろうとした際「己は本当に悼んでいるのか?」と疑問が去来し、とてもその言葉を使えなくなってしまった。

死は社会的なものか、個人的なものか?

周りと同じ「大人の対応」ができなくなってから、自分の中で何がひっかかったのかを考えていた。自分が言葉を扱う仕事をしている事もあり、大方の見当はついた。

つまるところ、一般的な表現で死者の安寧を祈るのは私にとって「死は社会的なもの」と認めることであり、あくまで大人として振る舞いますよという印だった。

社会で生きるにはそれで十分だと思う。私だって、会社の人に万が一があったら、迷わず「この度はご愁傷様で……」と定型句で濁すだろう。

でも、個人として発信するSNSではどうなのだろう。

歳を重ねると、多くの訃報に接する。敬愛する作家、同業かつ同志の方。いずれは我もと思いながら、数々の人を見送る立場になる。

あくまで個人の立場で、旅立つ人へ贈りたい言葉は何だろう。湿っぽすぎるのも似合わない。定型句を述べたくはない、でも黙って悼んでいるのでは冷徹と思われやしないか。
悩み抜いたが、正解は未だにない。だから、全部個別に考えることにした。

"Memento Mori"

とても青臭い、子どもじみた我儘を言っている自覚はある。
ただ、私にとって誰かの死は、単に不幸なニュースか、心かき乱される出来事かのいずれかだ。

誰の訃報に触れても同じ反応でいいのか? 少なくともその人が幾らか大切であったなら、その折々の言葉を考える手間は惜しみたくないと思った。

まだ物語を紡げるはずだった、同志たる方へは「Not yet, not yet(※)」。好きだった作曲家の方へは、楽曲の思い出と感謝の念を。

訃報に直接言及するのは極力避けている。タイムラインをお悔みと同調圧力で包みたくはない、悼みたい人だけが悼めばいいと思う。
ひねくれ者ゆえに発言意図もわかりにくい形にしてある。自分でも面倒くさい人間だと思う。

でも、いいじゃないか。世の中に、いくらかは。

自分なりのやり方で思いを零す、個人的な哀悼の場があっても。


※ 映画「グラディエーター」より。戸田奈津子氏の誤訳でなく、原義のほうで思い浮かべていただければ幸いです。

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