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市街地戦におけるリスク管理と、R18漫画における屋外プレイに潜む危険性に感して

 昨今の世界情勢の混乱と、侵略国家による恐るべき戦闘活動は、近現代における市街地戦の恐ろしさ、民間施設や一般人の被害をあらためて世界中に知らしめ続けている。

 この光景の恐るべき点は、組織的に行われる断続的なミサイル攻撃や砲爆撃に留まらず、各兵士の個人的意識から始まる、捕虜や市民に対する直接的暴力や間接的な(被害を厭わない)戦闘や戦術も多用されている点である。


 こうした活動を「秘めたる差別意識。暴力性の発露」と断ずるのは簡単である。
 しかし平時は善良な市民であった人や、また差別や迫害とは距離を置いていた人が、このような活動に参加するには、単なる「秘めたる思想の発露」だけで見るのは難しいだろう。
 
 何故ならこうした光景は、社会から隔絶された「戦場」にて行われている点から、彼らがおかれた特殊な環境と状況、そして「自分や仲間の命が掛かっている」という、究極的な「博打」とも深い係りがあると見るのが自然である。

 多くの人間は社会性をもって他人とかかわりながら生きており、相互に深い影響を与えながら過ごすものである。
 故に、自分と仲間の為の選択、そこで築き上げられた「今の環境、我々だけで構成された心地良い関係と活動」に重きを置き、時には周囲から見たら滑稽にも見える選択や活動に移ることにもなるのだ。


 こうした極端な「親しい仲間との活動。それを維持しながら共通の目的を達成したい」という気持ちと選択は、まさしく「R18作品におけるヒロインとのイチャコラ」に該当する。

 これらのキャラクターは専ら人目を忍んで、読者に向けたイチャコラに励むものである。
 何故なら周囲に無関係な人がいる環境では、自身の活動を妨害される恐れや、お互いに激しい活動に勤しんでいる最中に「おいおい、俺も混ぜろよ」という風に、背後や脇から奇襲をされる可能性もあるからだ。

 またこうした行為を他人にひけらかす行為は、現代では反社会的行為と見なされ、自身の身の安全や将来すらも危うい事となる。極力社会とは離れた所でコトに及ぶのが妥当であろう。
 
 こうした「予測不能の出来事の低減。周囲への影響。晒されるリスク。社会性を保ったまま反社会的と言える行為」に及ぶのであれば、まさしく多くの軍隊が取るべき活動は「市街地から遠く離れた場所での野戦」となるのが道理であろう。

 古来からの軍隊は、まさしく「市民や周辺のコミュニティから戦場を遠ざけること」を重視してきた。
 これはR18作品のキャラが自室やホテルでコトに及ぶのと同様の意識から出るものである。
 それによって活動の選択肢が大幅に広がり、周囲への被害(マニアックかつ暴力的な行為であれば大変なトラウマとなる)を抑え、より柔軟な戦術や戦いを繰り広げることを可能とするのだ。
 
 また古代~近世に使われた要塞や城は、ある種の野戦以上に完璧な個室として機能し、戦場と社会を隔絶した有様は、防音設備が整ったホテルの一室が如きである。
 壁を隔てた向こうに繁華街があろうが、駐車場があろうが、或いは別の戦場があろうとも、軍隊同士の激しい活動を他から隔絶して守ることを可能とし、やはり軍隊の戦術や活動の選択肢を広く与えてくれるのである。
 
 即ち史上における軍隊とは、エッチな行為に及ばんとするカップルのように、社会から隔絶された環境を求め、隠された獣性を存分に発揮する事を常に思考していた。
 そして普段から妄想して自主訓練に励んでいた戦術、磨いていた大砲やミサイルを使うことを何よりも尊ぶ、ドチャクソにスケベな存在だったのである。そしてこれは現代でも大きく変わることはないのだ。


 こうした活動や思想を「反社会的な恐るべきドスケベである」と、一昔前のPTAのおばさんのように断ずるのは簡単であるが、しかし周辺の被害を最小限に留めながら活動し、戦略を練るのは正当な選択である。
 多くの国の軍隊は都市や街や村を保護し、それらを戦火に巻き込まないよう、それでいて国家としての暴力装置としての役割を担っているのだ。
 
 しかしこれは「野戦」という選択肢によってこそ生まれる道理である。
 周囲と隔絶されたことで安全性や活動性が担保され、ある程度自由に動けるからこそ、「一定の秩序と計画」に基づいた戦闘が行えるのである。
 
 これが市街地戦となれば状況は大きく変化するのだ。
 市街地戦は野戦のような、自身の活動を担保する周囲との隔離性や、兵と市民双方の安全性の確保が全くと言って良いほどに皆無なのだ。
 即ちホテルや屋内での行為とは真逆の、さながら野外セックスのように、行為に勤しむカップル自身に安全性も秘匿性もなく、また周囲の一般人もとんでもないスケベ行為を目の当たりにするリスクや、それに巻き込まれるリスクを負う羽目になるのである。


 こうしたイレギュラーで危険な要素を持つ市街地戦は、軍隊にとって多大なリスクを背負わせることとなる。
 自身の行為が周囲に多大な影響を与えることを考慮し、取れる選択肢は大幅に狭まることとなるだろう。

 しかしこの制限自体は問題ではない。秩序ある軍事組織にとって、一般人の命と財産と生活をも守るべきというのは、最低限持つべき理性と良識であり、平時からの意識教育の大前提ともいえる価値観である。
 市街地戦を行う軍隊も、屋外行為に勤しむカップルも、各々が良識に基づいた最低限の倫理観を保ちながら、行為に及ぶ場所を選定するものだ。
 また入念に周囲の人払いを行い、地域を確保し、自分達の直接的行為が周囲の人々に与える影響を最小限に留めようと努力するものなのだ。(ここハム太郎)
 
 しかし市街地戦のように、お互いにとって不確定要素が多い環境では、こうした良識は「起こり得る何らかのリスク」に天秤にかけられ、徐々に喪失していく。
 常にイレギュラーな要素に塗れ、危険性や様々なリスクが付きまとい、活動が大きな制限下にある中では、「これぐらい仕方ない。今回は例外だ。危険の排除や迅速性の為にはやむを得ない」という思考が末端の兵士や部隊に蔓延する。
 すると本来士気と秩序を保ち、部隊を統括する上層部との意識や活動の乖離も生まれやすくなる。
 


 これは屋外行為に勤しむキャラも同様の傾向を示すもので、最初は十分に配慮した場所やプレイを行い、コトも最小限の接触と時間で済まそうと考えるものだ。

 しかしこれが常態化すると、良識的判断に綻びが生じる。「前は大丈夫だったから次はもっと大丈夫」と考えて、場所やプレイ内容が大胆になることは最早お約束である。
昨日は学校の屋上で影でヤッていたのに、今日は金網を掴みながらグラウンドから見えるようにバックで行い、明日には授業中に抜け出して靴箱の影でヤることすら考えねばならない。
 
 ある一定の良識が、少数の成功体験から緩みだすことは、どういった環境でも起こり得るものだ。しかし、市街地戦や屋外ドスケベえっちにおいては致命的である。
 それは周辺地域や住民の生活に致命的な影響を与えることとなるだろうし、またそうしたコトに励んだ人達は後世にまで汚点を残すこととなるだろう。
 
 しかし、汚点ならばまだマシなほうで、こうした油断は直接的な犠牲を生み出すリスクも大幅に上がるものだ。あなた方が学校の屋上でえっちに勤しみ、またその活動が大胆になったときに最も憂慮すべきは「それに混ざらんとする敵対勢力」の存在である。


 これは市街地戦においても同様で、本来緻密かつ計画的に活動していたらば発見されなかった部隊や活動が察知され、攻撃を受けてしまえば、それは目も当てられない惨事となるだろう。
 まったく無防備に油断しているときの攻撃は、屋上で大胆露出羞恥バックプレイを楽しんでいる連中には致命的である。
 
 本来ならこうした奇襲的攻撃から逃れることも市街地戦では重要である。であるが故に、油断と慢心からの大胆な活動、また周囲への影響を厭わない活動は控えねばならない。
 しかし、人目を避けた慎重かつ緊張感を持った活動を、個々の理性や自律的な思考に頼る屋外プレイでは、組織的倫理観や慎重さが損なわれてしまうものなのだ。
 その時々の「楽な方法。面白い方法。おいしい方法」が少しずつ選択され、その結果、大胆露出プレイから発見され、避けるべき敵に美味しくいただかれるのは、人間の心理から考えても珍しいことではないだろう。
 
 こうした自身や危険に対する無警戒や慢心と危険性、また「それでいてコトを達成したい」という、目的意識の極端な幼稚化は、必然的に「周囲に対する攻撃性」へと変貌する。
 即ち、市街地戦における兵士達は、その身の安全と目的の達成に手段や思考の省略可を選択するようになり、市民の生活や財産に致命的な影響を及ぼす可能性があるのだ。
 


 例えばえっちな漫画でも、強い暴力性を秘めたヤンキーキャラを全くの自由に置いたとき、場所も弁えずに彼女とえっちな行為を行ったり、その見張り役に君たちのようなオタク君を強制的に用いることは珍しいことではない。
 またこうしたヤンキーがオタク君の幼馴染にも手を出し、読者やオタク君が鬱勃起状態になることすらあり得るのである。
 そして我々は、その幼馴染がNTR状態でなるのを見守るしかないのである。

 こうしたヤンキーのNTR行為は、緊張下にある兵士による暴力的かつ破壊的な行為と類似しており、「自身の目的と安全性のための良識や手順の省略。目的の為の犠牲の正当化」は、極端な緊張状態で自立的な判断を求められ続ける兵士が、陥りやすい思考となる。
 もしこのヤンキーの見張りに十分な体育教師が就き、所構わないえっち行為を抑制し、またオタク君と幼馴染の健全な性活(誤字ではない)を保障していれば話は変わっていただろう。
 そして暴力的で非人道的、世が世なら戦犯として処されるべきである「幼馴染NTR状態」を阻止出来ていれば、ヤンキーもオタク君も安全かつ健全に働けたはずなのだ。
 


 これこそが統制が難しい「市街地戦」の恐るべき所である。
 「目的を達成する」ための自立的な思考と責任の連続が、極端な緊張と、倫理観の緩み、油断や慢心を生み、周囲への被害を厭わない活動を生み出してしまうのである。

 故に市街地戦は「屋外所構わずえっち」と同じく、極力排除すべき選択肢である。
 その周辺に住む人々の生活や財産を保証し、危険な行為から遠ざける措置として、隔絶された環境にてえっちに励むことが重要なのだ。
 
 ここで重要なのは「野外えっち的行為に勤しむ恐るべき兵士」として見るのではなく、与えられた環境による制限や、任務と責任への過度に自律的な対応と判断を求め続けることの危うさである。

 もし我々が「では校内で幼馴染とえっち行為に勤しみなさい」と命令されたらば、やはり同様の結果を招くはずだ。
最初は自らを律し、良識を保って隠れて行為を行うだろう。

 しかし時間は経つと「これは命令されたことだ。やむを得ない。さっさと済ませるべきだ。周りの奴らが退けば良い」という思考に捕われ、ついには授業中の教壇えっちにすら発展するだろう。
 
 恐るべき環境と命令の自律的な解釈と活動が、極端な判断へと繋がってしまうのだ。
 これはどうあろうと避けられない、誰にとっても悲劇であると見るべきである。
 


 こうした惨劇を抑えるためにも、上層部や指揮官がよく状況を把握し、サポートできる環境。また兵への過度な責任や判断の連続を強いることも少なく、各種状況がよく整備された野戦的環境が望ましいだろう。
 言わばコレは「ラブホテル的環境」と呼べる形態である。兵士はよく整えられ、一般の生活圏から隔絶された環境下でえっちに勤しみ、またその独立した環境を担保された状態で任務に励むことが出来る。
 屋外プレイのような周囲からのイレギュラーな干渉や、それから身を守るための過度な緊張や、それ故の暴力的判断を防ぐことにも繋がるだろう。
 


 しかしそれでも、世のあらゆる戦闘行為は「それ自体が反社会的な秘密裏の幼馴染えっちには変わりない」と言える。そもそもが許しがたい暴力的行為である。
 しかしその環境下であっても、よく管理されて隔絶された野戦は、周囲の人々や街への被害を抑制し、兵自身の負担や暴力的判断の軽減するにも繋がる判断となるのだ。
 そして最も恐るべきは無関係な一般人への被害拡大であり、これは事前に防ぐべき事柄である。安易な屋外えっちの選択はこうした被害を生みやすい環境であり、万が一教卓上での汗だくドロドロえっちに励む必要に迫られたらば、組織的に人々の退避を指導することが必須である。
 
 今一度考えるべきは「市街地戦の屋外えっち的な一般人への被害の拡大やリスク」が必ずしも兵士や主人公にのみ帰結するものではないということだ。
 中には「こんな所でえっちするの恥ずかしすぎるよぉ…」というヘタレ主人公が、恐るべきヤンキー達によって反社会的な行為に手を染めることもあるように、不十分な環境故の悲劇も起こり得るのである。
 
 あらゆるえっち行為と戦闘行為は、活動が担保され、よく整えられ、周囲との独立性が保ち、不必要な緊張と自己判断の連続がないよう、管理された環境下になければならない。
 


 そうでなければ、恐るべきヤンキーによる幼馴染NTR展開や生徒の前での屋外えっち行為、また周囲を巻き込んだ乱交にすら発展し、それから身を守るための暴力的選択に繋がるのである。
 どうあれNTRや「俺も混ぜろよ」な展開は許されない。純愛二人きりえっちこそ至高であり、その為の準備と戦略を絶やすことは許されないのだ。
 
言うまでもなく、これこそ最も重要な事柄である。

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