現代屈指のサイエンスライターが迫る生命の謎。『「生きている」とはどういうことか』試し読み
7/4発売のカール・ジンマー著『「生きている」とはどういうことか:生命の境界領域に挑む科学者たち』から、試し読みをお届けします。
アメリカを代表するサイエンスライター、カール・ジンマーが「生命とは何か?」というテーマに真っ正面から取り組んだ意欲作。
科学が進歩した今でも、誰もが納得できる生命の定義はいまだに存在していません。生命と無生物を分けるものは、一体何なのでしょうか?
今も議論が絶えない中絶や脳死の話題から、生命の謎に挑んだ過去の科学者たちの奮闘、さらには無から生命を作り出そうとする現在進行中の研究まで、多彩なエピソードを交えながら、生命の核心に迫ります。
高い評価を得て、ニューヨークタイムズ・ブックレビューなど各紙誌の年間ベストブックにも選出された話題作。
それでは、第1部冒頭の抜粋をお楽しみください。
【試し読み】
翌朝は、崖の上を歩いた。ノース・トーリー・パインズ・ロードは、カリフォルニア州ラホーヤを抜けて、そびえ立つタワークレーンの群れの脇を北へ延びている。ラッシュアワーの車の流れの脇にいると、すぐそばに荒々しい海岸線が隠れているのを忘れてしまいそうだ。ユーカリの木が並ぶ駐車場を横切り、サンフォード再生医療コンソーシアムにたどり着く。そこはガラス張りの研究室とオフィスからなる複合施設だ。なかに入り、3階の研究室へ行くと、クレベル・トゥルヒーヨという、ブラジル生まれで短いあごひげをたくわえた科学者に迎えられた。その後、ふたりとも青い上っぱりと手袋を身につける。
トゥルヒーヨは私を、冷蔵庫と培養器と顕微鏡が並ぶ、窓のない部屋に案内した。そこで彼が青い手を左右に広げると、ほとんど壁に触りそうになる。「ここで私たちは半日を過ごしています」と彼は言った。
その部屋で、トゥルヒーヨと大学院生たちは、特殊なタイプの生命を育てていた。トゥルヒーヨが培養器を開けて、透明なプラスチックのケースを取り出す。そのままケースを頭上に掲げ、私にケースの底を通して中身が見えるようにしてくれた。ケースのなかには円いウェル(深皿)が6つあり、それぞれクッキー程度の直径で、薄めたグレープジュースのようなもので満たされている。どのウェルにも、イエバエの頭部ぐらいの大きさの白っぽい球が100個ほど浮かんでいた。
どの球も数十万個のヒトのニューロンで構成され、一個の前駆細胞から増殖してできたものだ。いまやそうした球が、われわれ自身の脳がすることの多くをおこなっていた。グレープジュース色の培養液に含まれる栄養物を取り込み、成長の燃料を生み出していた。みずからの分子の手入れをきちん
としていた。さらに、波のように一斉に電気シグナルを発生させ、神経伝達物質のやりとりによって同期させていた。ひとつひとつの球──科学者はオルガノイドと呼んでいる──が独立して生きており、いくつもの細胞がまとまってひとつの集合体になっていた。
「お互い、そばにいたがるんですよ」。ウェルの底をじっと見ながらトゥルヒーヨが言う。自分の作り出したものがかわいくてしかたないようだ。
トゥルヒーヨが働いている研究室のリーダーは、ブラジル出身のもうひとりの科学者アリソン・ムオトリだった。ムオトリは、米国へ移住してカリフォルニア大学サンディエゴ校の教授となってから、ニューロンの育て方を習得した。彼はまず、人々からわずかな皮膚を採取し、化学物質を与えて胚の
ような細胞に変化させた。それにさらに別のいくつかの化学物質をかけると、本格的なニューロンに育て上げることができた。平たいシート状に培養してシャーレの底を覆わせると、そうしたニューロンは電圧のスパイクを発し、神経伝達物質をやりとりできたのである。
ムオトリは、こうしたニューロンが、遺伝子変異によって起こる脳障害の研究に使えることに気づいた。人々の頭から灰白質のかけらを切り取るのでなく、皮膚のサンプルを採取してリプログラミング〔細胞を未分化の状態に初期化すること〕をおこない、ニューロンにすることができたのだ。最初の研究で、彼はレット症候群という遺伝子変異による自閉症を患う人々のニューロンを育てた。その症状には、知的障害や運動制御の低下などがある。ムオトリの育てたニューロンは、シャーレいっぱいにケルプのような枝を広げ、ニューロン同士で結びついた。彼はそれを、レット症候群でない人々の皮膚サンプルから育てたニューロンと比較した。するといくつかの違いが目についた。なにより顕著なのは、レット症候群のニューロンでは結合の数が少なかったことだ。そのため、レット症候群を解き明かす鍵は、神経のネットワークが貧弱で、そのせいで脳内でのシグナルの伝わり方が変わる点にあ
ると考えられるのである。
だがムオトリにも、ニューロンの平らなシート1枚が、脳とはほど遠い代物であることはよくわかっていた。われわれの頭のなかにある1.3キログラムあまりの思考する物体は、生ける大聖堂のようなものだ──その大聖堂は、それを構成する石たちがみずから築き上げたものなのである。脳は、胚の頭部になるところへ入り込んだ少数の前駆細胞から生じる。前駆細胞が集まって袋状のかたまりを形成し、増殖するのだ。かたまりは、成長とともに四方八方に長いケーブル状の枝を、できかけの頭蓋の内壁に向かって伸ばす。それから別の細胞が前駆細胞のかたまりから生まれ、先ほどのケーブルをのぼっていく。その途中、細胞の種類ごとに違う場所で止まり、それぞれ外へ広がって成長しだす。それらが層状に組織されたものが、大脳皮質となる 。
ヒトにおけるこの外側の脳で、われわれはヒトにしかできない思考の多くをおこなっている。ここで言葉を理解し、人の顔に出る内面を読み、過去を参照し、遠い未来の計画を立てているのだ。こうした思考に用いる細胞はすべて、頭のなかにある特定の3次元空間に生じ、大量のシグナルが行き交う海の波にもまれている。
ムオトリにとって幸いだったのは、リプログラミングした細胞を増殖させてミニ臓器にするレシピを、科学者たちが新たに考え出したことだ。肺のオルガノイド、肝臓のオルガノイド、心臓のオルガノイドができ、2013年には脳のオルガノイドができた。リプログラミングした細胞を、脳の前駆細胞になるように誘導できたのである。しかるべきシグナルを与えれば、そうした細胞は増殖して何千ものニューロンになる。ムオトリは、脳のオルガノイドが自分の研究を一変させることに気づいた。レット症候群のような疾患では、脳の発生の最初期から大脳皮質の改変が始まる。これまでムオトリのような科学者にとって、この変化はいわばブラックボックスのなかの出来事だった。それが今、脳のオルガノイドを丸見えの状態で成長させられるようになったのだ。
ムオトリはトゥルヒーヨとともに、初めはほかの科学者が定めたオルガノイドの作成レシピに従っていた。その後ふたりは、大脳皮質を作り出す独自のレシピの作成に乗り出した。脳細胞をしかるべき発生のルートへ誘導できる化学物質の調合を見つけようと、悪戦苦闘したのだ。しばしば細胞は、途中で死に、破れて中身の分子を吐き出した。やがてついに、ふたりは正しい調合を探り当てた。驚いたことに、いったん正しい方向へ動きだしさえすれば、その後の成長は細胞自身が引き継いでくれた。
もはや彼らは、根気よくオルガノイドの成長を誘導する必要はなくなった。細胞のかたまりが、自然にほぐれて中空の管を形成したのだ。さらにその管から枝分かれするケーブルが芽吹き、ほかの細胞がケーブルに沿って移動し、層をなした。オルガノイドは、外側の表面に、われわれ自身のしわく
ちゃの脳を彷彿とさせる襞ひださえ形成した。ムオトリとトゥルヒーヨは、いまや何十万個もの細胞からなる皮質のオルガノイドを作ることもでき、そうして作ったものは、数週間、数か月、さらには数年も生きながらえていた。
「なにより信じがたいのは、こうしたものがひとりでにできあがることです」とムオトリは言った。
本書の目次
著訳者紹介
『「生きている」とはどういうことか』紹介ページ
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