見出し画像

天、川、歌(8)

 第8話 呪縛 

 民宿の自室に帰り、荷物を整理しながら温泉で出会ったふたりに聞いた明日の神事について思いを巡らせていた。誰でも見ていいということだったから、行ってみよう。護摩を焚くと言っていたので、母の供養のつもりで手を合わせてみよう。寿里亜は、三回忌を迎える母の供養のために天河神社へ来たのだが、どのように供養をするかは決めてきていなかった。神社に来て、七夕供養燈火を納めるつもりでいた。お参りのために、白い上下の服も用意してきていた。
 6時少し前、民宿の主人が夕食を知らせに来た。夕食は別棟の母屋に用意されている。ほかの泊り客も出てきた。寿里亜のほかには中年の男女と、中年の男性がひとり泊まっているようだった。長細い部屋にそれぞれ膳をとる。自然と他の客との会話が始まる。男女は夫婦で東京から、単独の男性は大阪から来ていた。この2組は昨晩から泊まっているようで、すでに顔なじみのようだった。
 なぜテンカワに?という問いに、実は母のためのお参りに来た、とサラッと言ってしまって、寿里亜は内心、少し驚いた。常々、人に自分のことを話すのがあまり好きではなかったからである。特に初対面の人に対しては、打ち解けないほうだった。夫婦組の奥様のほうが母が2年前の災害で亡くなったと聞いたときに少し気の毒そうな相槌を打ったが、男性2人はほとんど表情を変えずに聞いていた。
「よく来られましたね。ちょうど明日はご神事があるんですよ。私達も行くんですけれど、あなたもご覧になったらいい。その場で瞑想したらいいですよ、お母様のご供養によいでしょう。」
夫の方が言う。温泉で聞いた、護摩焚きのことだ。
「はい。私も行っていいのですか。」
「もちろんですよ。神様は誰だっていつもウェルカムなんですから。」
奥様のほうがそう言った。
「テンカワも、平成23年に台風の大雨で、この地区一体が水に浸かってしまったんです。」そう教えてくれたのは、ひとり客の男性だった。テンカワによく来るという。
「集落のあちこちに、水害の爪痕が残っています。天河神社も、本殿は無事でしたが、山沿いにある禊殿は土砂に埋まってしまったんです。現在はその禊殿も新しくなっていますがね。」
来るときに渡ったあの川が、氾濫してしまったのだろうか。自分の身近で起こった雨災害の記憶と重なって、なんだか肌感覚で身近に感じた。
「テンカワというところは、不思議なことがよく起こるんです。だから何度も訪れてしまうんですよ。」そういうふうに、ひとり客の男性は言った。
 自室に戻って、寿里亜は思い巡らせた。宿は、小さな民宿が数軒ほどしかないけれど、母もこの村に何日か滞在したのだろうか。ここでどんなことを体験したのだろう。母は、60歳で退職した後は、時々、旅を楽しんだ。特に山が好きで、登山も兼ねて出かけていたから、もしかしたら、ここでも山に登ったのかもしれない。夕食後、寿里亜は、未知の領域に今から入っていくような期待感と改まった気持ちで、歯磨きと手洗いを済ませ、明日の白い服を準備して床に就いた。
 神事は10時半からと聞いていたが、9時半頃宿を出て、本殿へ向かった。宿から神社は歩いてすぐである。神社の裏手にある長い階段を昇って、本殿へ出た。すでに神事の準備ができていて、地に丸い座布団が護摩を中心に円状に並べられてあった。多くはないが、ぽつぽつと人が集まってくる。なかに温泉で会った女性の2人組がいて、笑顔で手招きされた。
「さあ、ここへ座りましょう。」
「え、こんなに真ん前に?」びっくりして寿里亜が躊躇すると、巫女さんが誘導した。
「どうぞ。前から。」
2人組の女性の隣に座った。
「ほら。あちらが宮司さんです。ここからだと、よく見えるでしょう。」
その方を見ると、中央に白い衣でちょこんと小さく座っていた。年齢は、80代か。静かに身じろぎもせず座っていらっした。寿里亜はその佇まいに惹きつけられ、ちらり、ちらりと宮司を見るのだが、見るたびに先ほどと同じ姿で、絵のように座っていらっした。
 寿里亜は座ってから、不思議と背骨から、尾骨にエネルギーの柱が降りて、座っている丸い座布団を刺し通して、土の深く深くに根のように降りていく感覚を覚えた。ここが天河神社。母もまた、ここへお参りをしたのだろうか。自分が今、この場にいることも不思議な気がする。母の寿里亜に対する望みは、大きくふたつであった。ひとつは公務員になって安定した経済力を付けてほしい、もうひとつはこどもを産んでほしい、である。ひとつめの公務員は、叶えてあげた。ふたつめは、母が生きているうちには叶えてあげられなかった。
 寿里亜は思う。それは母の希望であって、わたしの願いではない。それなのに、そうしなければ、と思ってしまっている。なぜそうしなければ、といまだに思っているのだろう。母はもう死んでいないのに、公務員などしたくもない職業なのに、なぜ自分の望む職業へ歩を進めないのだろう。また、こどもを産まなければ、という呪縛から逃れられないのだろう。母は自分がしていないからか、結婚についてはとやかく言わなかった。それなのに、こどもは産め、と繰り返し言った。自然な御縁に繋がれなかったので、結婚もこどもも産んでいないが、妊娠・出産については自然のリミットがある。30代も後半になって、そのことを考えると、訳もなく焦燥感にかられた。母がいない今、ひとりきりでこどもを育てるなどまるで自信が無かったが、このまま歳をとると、完全に妊娠・出産は時間切れになる。いや、こういうことには個体差があるのだから、自分はもう可能でないかもしれないのだ。

 第9話につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?