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天、川、歌(7)

 第7話 天河神社

 7月4日、土曜日。奈良県天川村は、広島から行くとなると、ちょっとした旅行になる。新幹線、近鉄と乗り継いで、最寄り駅の下市口駅からさらにバスで1時間だ。寿里亜は、いつもの観光旅行とは違った神聖な気持ちで車窓から外を眺めていた。今日は特別な旅行だが、こんなことでもない限り、ここまで来ることはないだろう。山里を行き、川を渡って、細い道路に入った。次が天河神社であることをアナウンスが告げた。
 寿里亜が降り立った場所は、赤い鳥居の前だった。ここが、天河神社だ。時は3時半。街の湿った暑さと打って変わって、ひんやりした空気を全身で感じる。これは神気なのだろうか。ひんやりとした水滴が苔の間を岩肌を濡らしながら滲み落ちてゆく気を感じる。身の引き締まるような堂々とした鳥居の前で寿里亜は一礼すると、歩を進めた。アーチ型の橋を渡って、手水を使う。境内を見渡す。寿里亜は、目がおかしくなったのかなと思ったのだが、墨汁を一滴垂らしたような薄い薄い墨の色の紗がかかっているように見えるのだった。
 本殿への階段を昇りきると、左に拝殿が、右に舞台がある。このような神社を見るのは、寿里亜は初めてだった。正面に向かうと、ピンと背筋が立ち、澄み渡っていくようだった。深々と二礼した後、柏手を二度打った。最後に一礼してその奥を見ると、何かに見守られているような気がした。
 神社にほど近い場所に宿をとっていた。田舎に帰ってきたような懐かしい感じのする民宿である。6時に夕食というので、その間に歩いて10分程の温泉に行くことにした。タオルと着替えを持って、散歩がてらにぶらぶら歩く。神社の裏手を通ってゆく。青々とした草木、あじさいの青、菖蒲の青、色の美しい季節だ。先ほど、目の見え方がおかしいと思ったが、治ったらしい。鮮やかさにに見とれながら歩く。
 大きな蓮の花の咲く池に出た。水から高く首をもたげ、白く大きな花があちらこちらで咲く。寿里亜は立ち止まって、じっと見つめた。ゆるやかに風が吹いている。風に吹かれて、首をもたげた花がゆらりゆらりとあちこちで揺れた。ただ、この風景が目の前に広がっている。寿里亜が今まで生きてきた間に経験したあれやこれや。辛いことも悲しいことも、楽しかったことも、現実のことだったのだろうか。起きては消え、流れ去っていった。自分が生まれてずっと続けていたと思っていたこの人生、現実と思っていることは、リアルだったのだろうか。今まで、喪失感を握りしめていたけれど、それは現実なことだったのだろうか。何かを本当に失ったことがあったのだろうか。母を失った喪失感は、その思いが湧いただけだったのではなかったか。リアルなのは、目の前のこの蓮の水畑だけなのである。
 天川の地は、不思議なところだ。何だか目に見えるものからして普段の調子と違う。寿里亜は少し首をひねって温泉に来た。車も結構、止まっているし、神社より人が多い感じで、普通の観光地のようにも見える。しかしながら、どことなくほかとは違う、と思わせた。温泉は、まだきれいな感じの共同湯であった。女湯は、地元の年配の人がひとりいるだけだった。湯は、なんとも柔らかで皮膚がしっとりとツルツルに包まれる。豊かな自然の恵みだ。寿里亜は、ぬるめの湯が好みだった。露天の湯にじんわりと浸かる。時々そよぐ風が心地よい。やわらかな風に吹かれるままにして、半身を湯に浸かりながら雲を眺めていた。しばらくして、年の頃が同じような2人連れが入ってきた。
「ああ〜いい気持ち。」
いかにも朗らかな2人に自然に笑みが溢れる。大阪から来たという。別の民宿に泊まっていた。
「お泊まりなら、明日、神事がありますよ。」と教えてくれた。興味がありますか?という表情である。
「神社でですか?」
「そうです。宮司さんの護摩焚きは特別なんです。滅多に見られるものじゃないし、是非見たほうがいいですよ。」
ひとりが言うと、もうひとりが頷いている。
「明日は、何かの祭事の日なのですか?」
「いいえ。神社の祭事ではありません。ですから限られた人しか知らないんです。居合わせた人だけが見られるんですよ。」
そしてこう続けた。「きっと、あなたも呼ばれたんですよ。」
寿里亜は変な気がしたが、この2人にとって、この神社は特別な神社だということはわかった。
 湯を出て、風に吹かれながら歩く。一本道に沿っていくと、神社の正面の鳥居まで来た。到着した時は気づかなかったが、鳥居の道を挟んだ向こうには、幹の太い、大きないちょうの木があった。そこは、閉まっている小さなお寺のようだった。その先へ堂々とした貫禄のいちょうの木が立っている。寿里亜はいちょうの幹にそっと抱きついた。樹齢何百年かの長い長い間、生きてきたこの木が大地から吸い上げる水の道を感じたい、と思った。そのあと再び、神社の境内に入る。もう5時を過ぎているので、参詣者はいない。白い衣を着た神社の若い人が、荷物を抱えて行き過ぎるのを見ただけだった。

 第8話につづく

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