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天、川、歌(12)

 最終話 降臨

 ピーッという甲高い笛の音が鋭く響いた。ぽたっと頬に冷たいものが落ちて寿里亜は我に返った。ぱらぱらっと突然大きな音を立てて、大粒の雨が降ってきた。同時に急激に震えるほどの寒さが来た。ものすごい雨音、水しぶきだ。寿里亜は慌ててもと来たとおりに駆け戻った。しかし、水けぶりと雨のシャワーで行く手を見失う。そこへ青白い閃光が走った。ドン!と地響きがして、直後に凄まじい轟音と振動が落ちた。寿里亜は叫び声をあげて思わずうずくまり、また夢中で走った。滝のような雨、次々と稲光と雷鳴が襲った。寿里亜は命がけの体で柵を乗り越え、禊殿の軒下奥に身を伏せた。耳を塞いで震える寿里亜に突然、こう声がした。
「母にもう一度会って、何がしたいの」
寿里亜は必死の思いで答えた。最後に一緒にいてあげられなかったことを、謝りたい。
声が言う。
「目をつぶってごらん。感じなさい。遠くからだんだん母が近付いてきたよ。」
寿里亜は固く目つぶり、暗い闇の中から母の顔が現れてくるのを感じた。
「母に言いたかったことを言いなさい。」
目を凝らしたが、大雨で真っ暗な闇に覆われ、叩きつけるような雨音以外、何も聴こえない。寿里亜は夢中で闇に向かって叫んだ。「お母さん、ごめん、ごめんね。助けてあげられなくて。」それだけ言うと、わあっと大声で泣いた。雨と涙でずぶ濡れだ。しゃくりあげるのも治まってくると、また声がする。
「母を感じてごらん」
寿里亜は、そうしてみた。母は、泣いてもおらず寂しそうでもない。穏やかに、微笑んでいる。
「さあ今度は、もっと遡って、言いたかったのに言えなかったことを言ってごらん。」と声がする。
お母さんは、安定ばかり求めたね。わたしは、公務員なんかにはなりたくなかったんだよ。寿里亜は口走った。大きな声で叫んでも、嵐の音にかき消されていく。「私は、お母さんの人形じゃない!ふざけるな!ふざけるな!」先ほどは謝っていたのに、今度は悪態をついている。
「その調子だ。今度は、母を前にして、お前が巨人になってごらん。母が小さい子猫くらいの大きさになるまで巨大化するんだ」、と声が言う。
寿里亜はそのようにしてみた。目線はどんどん下へ向き、母は足首くらいの大きさになってしまった。
「母をひょいと横の端へ置いて、いいから邪魔しないで、とやってごらん。」
寿里亜は猫の首をつまむように母をつまんで、脇へ置いた。
「それでいい、今度はどんどん遡って、母のお腹の中にいた頃まで戻ってごらん。」
寿里亜はとにかくやってみた。巨大化した自分は今度はどんどん小さくなり、人間のもと、くらいの小ささになる。母のお腹の中の絨毯は暖かく、気持ちが良い。しかし突然、安心な気持ちがなくなった。急に自分が消えてしまうかのような弱々しさ、寂しさや悲しさを感じる。辛い、寂しい、助けて!と言いたい。でも言葉が出なかった。寿里亜はおたまじゃくし位の大きさだから。寿里亜はこの感情をよく知っていた。いつも馴染んでいて気づかないものになっているが。名前をつけるなら、無力感とでも言うのだろうか。
「お前の感情じゃないよ。」と声がする。
「母の感情なのさ。それを自分の感情と勘違いしてしまっているんだ。お腹の中にいるんだからね。本当のお前は、儚くも、寂しくもない。助けなんかいらないのさ。真っ白なものなんだ。傷つけようたって、傷つけようのないものなんだからね。ところが、まだお腹にいる時から母の感情を自分の感情と間違えて負の感情を抱えてしまっているんだ。生まれたばかりの赤ちゃんは、まっさらで、何の影響も受けていないと思うかもしれないが、違うね。誕生したときには既に皆、良くも悪くも境遇に影響を受けている。お腹の中では、わたし、とわたし以外のもの、は区別できないからだ。みなわたしだと思っている。だから母の感じた負の感情も自分のものだと思ってしまうのさ。他者と自分とを一緒にしてはいけない。負の感情は役に立たない、いらないものだ。区別しなさい。」重々しい声がした。
そうするしかない、寿里亜はそうだ、と思うことにした。
「お腹の中の赤ちゃんから、さらに遡りなさい。硬い硬いダイヤモンドのような小さくて輝く球体になってごらん。光り輝いているよ、硬くて傷もつけようもない、汚れようもないものだ。それがお前の正体だよ。」
寿里亜はじっと噛み締めていた。
「それが愛、とでもいうものだ。」
寿里亜はそっと抱きしめた。
「さあ。今度は遡った道を元通り戻ってきてごらん。」
寿里亜はダイヤモンドの球体からおたまじゃくしになり、人の形になり、赤ちゃんになり、母という人に会って、幼児、こども、少女、大人になった。ひょいと横によけた母は足元で寿里亜の足をつついているが、どんどん歩いてきた。大学生になり仕事を選ぶときが来た。人に役立つ仕事がしたい。特に、助けを必要としている人に役立つような仕事がしたいな。お母さんはきつい仕事も頑張って、学校にもやってくれたから、お給料をもらって生活に困らないようにしたいな。別にお金持ちにならなくてもいいや。時には旅行に行ってのんびりできたらいいな。そうすると寿里亜は、役所の職員になっていた。今までやってきたあんな仕事、こんな仕事、予算や、統計なんかだって、直接人と関わらないようでいて、全て人のための仕事だったんだな。
「ところで、どうしてそんなに人の役に立ちたいのだ?」と声がする。
それは・・、人の役に立ったら、自分に価値が見い出せるからです。
「人の役に立たなければ、自分に価値がないと思うのか?」
価値が、希薄になってしまいます。いつも確認していたいのかな、自分はいてもいい人間だって。
「いてもいいかいつも確認していたいのは、どこから来ていると思う?」
あ、母親のお腹の中だ!
「今度は気がついたな。また生まれ直しだ。もう一回、最初からやってごらん。」
寿里亜はまた年齢を遡る。女の子になって、幼児になって、赤ちゃんになって、羊水に浮かんで、おたまじゃくしになる。男の声がして寿里亜のことを処置したほうがいい、と言っている。一緒に病院に行こう、と母を説得しているみたいだ。「バカヤロー。簡単に処置するとかって言うな!ここにいるんだぞ!いるんだぞ!」寿里亜が叫んだ。
「もっと叫べ、寿里亜。出しちまえ。」
お前の思いどおりになるか!なってたまるか!心細く、無力な感情が来た。
「お前の感情じゃないぞ、寿里亜。母の感情だ。母の感情を自分と混同してしまっているぞ」
またか。寿里亜は叫んだ。「人のいいなりにんか、なるなー」母に向かって言ったのか、自分に向かって言ったのか。渾然としているから、両方にか。
「もっともっと遡ってみよ、寿里亜。」
寿里亜はもっと遡った。おたまじゃくしから、卵、卵の次は、さて精子と卵と分かれるのかな?それぞれの細胞?細胞の先は・・二親のからだの細胞を作ってきたのは、同じように遡って二親を作った受精卵、すると二親のそのまた二親の細胞となるわけで・・これは、永遠に遡りの果てが来ないじゃないですか!と寿里亜は訴えた。
「そのとおり。ということは?」
ということは、って言われても、さっぱり分からないです。一体、いつから続いているの?「お前が生きているのは、お母さんから産まれたときからじゃないよね。」
確かに。お腹の中でも生きていたし。遡れっていわれて遡っていたら、どんどん人間が増えていきます!それもわたしなんだろうか。
「あなた、でなくて誰だろう。」
母もわたしなんだろうか。父も。たくさんの人たちも。
「あなた、でなくて誰だろう。」
本当に、いつからわたしは生きているのですか。
「もう分かっているだろう。お前の生命を辿っていけば、いついつに生まれたこと、がないことがわかるだろう。死んだことだって、ない。現に、いま、生きているじゃないか。」
母は、死んでしまったのだけれど、母もわたしであった、そのわたしがこのわたし?
「母は身体は失ったが、そのわたしまで消えてしまったか?」
わたしはここにいます。
「そのとおり。もう一度言おう。お前は生まれもしなければ、死ぬこともない。傷つけようたって不可能な存在だ。存在する価値、なんていう次元を超えた存在だ、お前がすべてなんだからね。」
わたしが、すべて・・
「人のために役立つ仕事をしたい、それはお前の自然な気持ちの発露であろう。しかしながら、なぜそうしたいかというと、本来のお前を忘れてしまっているよ。さて、今、また問うよ。お前はなぜ、人のためになる仕事をしたいのだ?」
それは、人に喜んでもらいたいからです。つまり、幸せになってもらうのが嬉しいからです。さっき分かったことだけど、それは他人のためじゃなくて、ほかならぬ、わたし、の幸せになることだから。だから人が喜ぶのを見るとわたしも嬉しいし、幸せそうだと、わたしも幸せな気分がするんです。そうか、そういうことだったのか・・
「お前のいるこの世界は、お前が想像できるほど小さいものではない。遥か彼方、何ものをも内在しているこの宇宙は、その全体生命は、お前に何を期待していると思う?」
全体生命ですって?この私に期待するようなことがあるんだろうか・・
「全体生命でしっくりこなければ、神、と呼んでもかまわない。お前に何を望んでいると思う?」
神様がわたしに望むこと?・・幸せだろうか?
「そうだろう?お前は神の分身であり、形を変えてはいるが、同じものだ。神にとってお前は、自分そのものだよ。だから当然、自分同様に幸せであることを願うのさ。」
神様は、私のことを見ているんでしょうか。
「見ている、なんてものじゃない。お前は神の形を変えた存在だよ。今まで一度たりとも離れたことはない。いつも一緒にいるのだから。お前のほくろ、や髪の毛の一本一本まで、全部知っているさ!お前がこの仮相の世界で遊ぶうちにこれを現実と錯覚して、勝手にひとりだ、と思い込んでしまっただけさ。お前は本当の自分の正体をすっかり見失ってしまったんだ。私の人生、なんてものをこしらえて、自分でどうこうしようなんて考えを起こすから苦しみが生まれるのだ。」
そうか。ああでもない、こうでもないと考えてやっても、結局、うまくいかないことが確かに多いな。空回りというか・・。
「宮司が言ったことを覚えているか?」
神様にもっと甘えていいんだよ、頼っていいんだよ、と仰っていました。
「そう。大切なことだ。よく覚えておけよ。お前にとって、神、なんてものは、天の彼方にいらっしゃる、そんなもの信じられないようなそんなイメージだったろう。全く貧困な想像だな。これからは、お前のそのちっぽけなアタマで考えることをやめて、ともにいらっしゃる神に任せて生きよ。お前の堅いアタマではすぐにはいかないかもしれないが、小さいことからやってみよ。」
なんだか肩の荷がぐんと降りたように感じます。今まで、自分がこの世界にいてもいいかを確認するために人に役立つように仕事をしてきたのを、人を幸せにするために、つまり自分を幸せにするために、つまり、神様に幸せを感じられるように同じ仕事をするのでもしていくことにします。神様の気配を感じながら。
「その調子だ。言っておくが人様は、お前とも同じ神の分身ではあるが、大多数が完全に仮相の世界に埋没して生きているよ。今、言ったように、そういう個人のアタマで考えることにろくなことはないということだ。お前は真実に触れたのだから、これからはこれまでとは違った選択の仕方をしなさい。仮相の世界にべったり貼り付いて生きる人様の意見に左右されるのではなく、お前とともに常にある神の声を聴き、甘え、頼りなさい。よいか。」
神様に甘え、頼るということはそういうことだったのですね。願い事を叶えてと拝むことのように思っていました。
「そういう態度を要求、というのだ。そういうのは強く願い拝めば拝むほど遠く離れてしまうだろう。願い続ける姿を続けていたいようにしか見えないよ。神はその姿を続けていられるよう、いつまでも願い事を叶わないように応じるだろう。」
なるほど。そういう願い事というのは、神の心にそぐわないということですね。
「本来、すべて与えられているのだから、要求は仮相の世界のものだろう。神が作り出す現実とは違う。その要求はどこから来るのかね。その願い事を掘り下げると、本当にほしいのは、その願い事ではないところから端を発したものであることが多いものだ。例えば、いついつまでに大金をくださいと願う。要求だ。なぜかというに、経営する小さな会社が倒産しかかっている。従業員を路頭に迷わすわけにはいかない。金さえあればというわけだ。一見、もっともらしい願いに見える。しかしながら、この人が本当に望むのは、金ではないことは、わかるであろう。本当は、安心の暮らし、従業員みなが笑顔でいられることがほしいのだ。それを金、金、と願うのは要求ではないのかね。本質の願いには神は必ず応える。それは金の形ではないかもしれないぞ。アタマで金、と要求するような判断は、はなからまともでない、と心得よ。金が聞き届けられなかったといって、神に不信を抱くのはお門違いだ。神の声を、合図を、聞き取れるようにせよ。」
本来、望んでいるものとは違うものをほしいと勘違いして手を合わせていることがあるのですね。
「本来、自分が何を望んでいるのか注意深く検証しなさい。ポイントは、神が望む現実なのか否か、だ。神の望みはわかったな。」
神の望みは幸せや喜びです。
「そのとおり。幸せや喜びを望み、現実に作り出そうとしている。お前は神と同じものが根底にあるのだ。それにシンクロし、形にすればよいことだ。」
神は幸せや喜びを願っているのに、この世に苦しみや悲しみまでも現実に作り出すのはなぜでしょうか。
「神が苦しみ悲しみを現実化するとでも思っているのか。」
でも、私は、ひとりぼっちになってしまった・・母はあんな形で突然逝ってしまった・・これが苦しみ悲しみでなくてなんでしょう。なぜ母の生命を奪ったのですか・・
突然の風が吹き抜けた。森が、木の枝が、葉っぱたちがうねるように波打った。
「さきほどから繰り返し言っているように。お前が自分の過去、と思っている出来事、苦しみ悲しみは神、全体意識が現実化したものではない。いま、母を失っているか?」
いま、失っているか、ですって?母は、死んでしまって、もういません。・・あっ!
「さきほど、お前は母に詫びたな。助けてあげられなくて、ごめんと。その苦しみは、悲しみは、お前が過去に現実に起きた、と思っていることを、アタマの中で現在進行形で描いたものではなかったか?そんなものが現実か?起きたことはただ起きたのだ。それを苦しみ悲しみに変えたのは、お前のアタマの中の考えだろう。どこに真実があるのだ。」
私を苦しめていたのは、私の思考?母の死や、天涯孤独になってしまった境遇ではなくて、私の思考・・
「母の死に対面すれば悲しみも湧くさ。それは自然の感情だ、泣いたってかまわない。だけど、もし私が側にいてあげたら、もし私が早く気付いて連絡していたら、もっと早く駆けつけていたら・・お前を苦しめていたのは、自分に向けたこの手の思考だろう。これが何の役にも立たないものなのだ。」
確かに、自動思考のように次から次へとこういう思考が湧いていました。
「自分に向ける刃は、神への冒涜だ。」
自分の自動思考に気づくことですね。
「さきほどお前は今の仕事について、見方を変えたね。母に敷かれたレールを仕方なく歩くのと、自分で決めて歩くのとはどうだい?同じ仕事をするのでも、その意味付けを変えてみたらどうだった?」
まるで違う仕事に就いたみたいでした。わくわくしました。
「目が覚めたら自分のなりたかった職業になれているわけではないよ。同じ仕事でありながら、自分の見え方、味わい方がガラッと変わるものなのだ。これだって、ただ起きていることに過ぎない。起きていることに対して、自分が気にいらないように見るならば、不満不平、苦しみ辛さが生じるだろう。いつも自分で作った色眼鏡で見ているようなものだ。起きていることをただ見るんだ。それだけが現実のものだ。それは刻々と変わるだろう。それを生じている場から求められるものが必ずあるはずだ。お前はその場に誠実に応じてゆけ。それだけでよい。ただの気休めどころではない、驚くべき変化が生じるはずだ。」
境遇は起きていることだから、それをどう見るか、応じるかはこちらが選べるんですね。
「そうだ。起きることはただ起きるんだから、お前のコントロール下にはないよ。起きていることをどう見るかはお前次第だ。自分が選ぶ権利があるんだから、ありがたいだろう。」
本当に、ありがたい気がしてきました。でも、いつもこれをというと、難しそうですね。
「自分をチューニングしていく工夫は必要だよ。」
チューニング?
「ピアノでもギターでも、ちょっと時間が経てば正しい音を出さなくなっているだろう。奏者は演奏前に必ずチューニングするね。」
人間の場合、チューニングはどうやるんでしょう。
「坐禅または瞑想だ。」
ここへ来てから何回かやったあれを・・
「習慣化してみよ。意識して取り組むんだ。忘れないようにやっていれば、毎日の生活の一部になるだろう。続けていけば、その効果が自分でもよくわかるようになるだろう。」
自分でできることならやりますよ。自分を変えたいんだから。でも、どういうわけで坐禅や瞑想がいいんですか?
「起きてくる場の要求に応えていくというのは、禅を生きるということだ。つまり、いま、ここを生きる。それもマインドフルに心を込めて。言葉にするとこれだけだが、実践するとなるとすぐに思考の荒波に呑まれてしまうだろう。土台作りが必要だ。坐禅は自分をニュートラルに戻し、要らないものが少しづつ剥がれるように落ちていくだろう。意識が明瞭になり、行動が正確になり、日常の些事に煩わされなくなるだろう。瞑想は、アタマの中に泥まみれの思考を掃除し、脳や精神に深い安息をもたらす。思考がストップするということは、宇宙から供給されるエネルギーの邪魔をしないということだ。エネルギーはチャージされ、日常の生活の活力が違ってくるだろう。」
自分でできることは、坐禅、瞑想の習慣をつくることですね。やってみますよ。教えてくれる人はいないかな。
「よい指導者を見極めることはとても重要だよ。ここで間違ってはいけない。慎重に指導者は選びなさい。お前は天河神社とご縁をいただいたのだ。それを手がかりにして探しなさい。よい指導者は自分を人より高みに置いたり、人を不安に陥れて弱みに付け込むようなマネをしない。きれいなエネルギーを発しているから、自分の直感に従ってみるのもいいだろう。」
わかりました。ここへ来てから出会う人、場所の雰囲気で、なんだか自分が素のこどもに戻ったような感じがしてるんです。なんとなくわかるかもしれないな。
「それでいい。ところでいま、母をどう見る?」
母のやってきたように、そうするほか、なかったと思います。母は私を産むかどうか悩んでいたくらいだから、苦労したでしょう。公務員になれと言い続けたのも無理はない。母は若いから未熟な部分もあったでしょうが母のキャラクターで、寿里亜の母、の役をしてくれたんですね。本当におつかれさまでした。寿里亜は答えた。
「では、次の機会まで、母とは一旦、お別れすることにしよう。」そう声がすると、母はだんだん遠ざかり、暗闇に紛れて消えた。ピーッという甲高い笛の音が聴こえた気がした。突風がザーッと吹き荒れた。声の主の気配が遠ざる。待って!あなたは、ここの祭神さまなのですか?寿里亜は叫んだ。答えはなかった。急速に山の梢に遠ざかっていった。疲れ果て、寿里亜はその場に倒れ込むように眠ってしまった。
 ふと目を覚ますと、辺りは白みかけていた。驚いたことに、寿里亜は禊殿の玉砂利の上に座っていた。昨日の朝、瞑想をした位置、夜に座った位置と変わっていない。しかも、あの嵐があったのに、服も玉砂利も濡れていない。昨日の夜のことは・・夢ではない。あれは現実だったのだ。寿里亜は足取り軽く、本殿に帰った。夜が明けてゆく。静かで、水底に沈んだような風景だ。ここに来ての日課の、朝拝に参列した。いつもどおりに順々とことが運ぶ。何もなかったごとく、いつもどおりの光景。寿里亜は、本当にあったよね、神様、と話しかけた。3つの鈴の奥の奥、鏡の向こうに神はおわすのだろうか。いや、ここに万物に宿っているのでしょう。禰宜の白い衣が、下からのふわっとした風に舞い上がって、ふわふわ揺れた。
 朝食後、宿を辞して、荷物を持って神社にお別れの挨拶をした。また、来ますね。夢のような3日間が終わろうとしていた。元きた道をバスが下り、下市口駅に着いた。そこは、下界であった。どこが違うのかわからないが、できている粒子が違う気がした。寿里亜はそこから電車に乗ったが、新大阪駅で改札を通ろうとして、乗車券を持っていないことに気がついた。買った覚えもない。一体どうやって、改札を入ったのだろう。当たり前の手続き、順序にもたつきながら、やっと広島に帰ったのである。
 随分、長い間、休んだような気がしたが、明日から出勤だ。やれやれ、またあの小西さんとのお付き合いか。寿里亜は苦笑した。わたし、小西さんのこと、嫌なんだな。嫌いというと、ジエンドのような気がして、今まではっきりしなかったけど。嫌なんでしょ。嫌でもいいよね。わたし、もそう。自分だって、みんながみんな、好きになってもらわなくったっていい。嫌、苦手、という人がいたって、当然でしょ。嫌な人も、好きな人も、いたっていいよね。ああ嫌、だということを認めたら、なんか楽になった。嫌、を嫌でない、に変えようと思わなくたっていい。不自然だもの。それなりにやり過ごすことは可能でしょ。さ、今夜はおしまい。仕上げの瞑想をして眠ろう。祭神さま、明日から平常に戻るけど、わたしにほんとうのこと、を見せてくださいね。あなたの声を届けてください。
 翌朝、寿里亜のいつもの通勤風景が、ゆったりと見えた。職場の門扉を久々に開ける気がした。するりするり、おや、こんなに門扉は軽かったかな。誰もいない一番乗りのしんと静まった職場。主な窓を開けて廻る。梅雨時の、もうすぐ雨が降る予報だけど。ああ、いい風が入ってくる。コピー機の電源を入れて、お湯をポットにセットして、トイレに行って。いつもどおりの動線を、すいすいとこなした。
デスクに座って、いつもどおり仕事を進めた。
「おはようございます。」
やはりいつもどおりの抑揚のない挨拶。小西がやってきた。
「おはようございます。」
寿里亜の声、少し大きめだったかな、と思う。
「書類のチェックやっておいたよ。見落としたところがあるかもしれないけど。」と小西の声がした。
「ありがとうございます。」声が弾んだ。よかった。2日間も休みをもらったけど、スルスルとはかどっている。悩むことなどなかった。それに、私が間違っていたんだ。私が小西さんをだめだと思い、いらないと裁きたてて、悪い方ばかり見ていたんだな。小西さんの皮をかぶっているものは、その奥のものは、わたし、とひとつのものなのに。全然、見ようともしていなかった。もともとが、偏った見方しかできていないんだ。もしまた自動思考で悪者にするように考えたら、自分の間違いがあるはずだから、さっさとゼロポイントに戻ろうと意識することだ。祭神様、正しいものを、見せてください。さあ明後日は会議が入っているな。さっそく準備にとりかかろう。
 寿里亜は、新しく始めたことがあった。朝は坐禅をし、夜は瞑想をする。どんなに忙しくても、それだけは必ず守った。わたしがアタマで考えることのなかに、まともなことがあるとすれば、神とともにいられるいまここに戻ってこようとすること。自分との約束は、神との約束であった。現実に、あの祭神さまと約束したのだから。(完)


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