見出し画像

天、川、歌(4)

 第4話 七夕

 今年は、母の三回忌に当たる。もとより地縁も血縁も薄いし、信じる宗教やお付き合いのあるお寺があるわけではない。法要は、しなくてもいいと思うが母の命日に当たる7月6日には、静かに祈りを捧げたいと思った。母に祈りを捧げるなら、どういうふうにしたらいいだろう。ふと、寿里亜は立って、引き出しから緑色の封書を取り出した。母あてに届いていた封書のことを思い出したのだ。
 転送されてきた母あての郵便物である。近頃では母あての郵便物はほとんど届かなくなっているのだが、母が亡くなったことを知らないDMなどが時々届く。この封書は、差出人が印象的だったので記憶に残っていた。差出人は、天河大辯財天社、とあった。目が釘付けになったのは、後納郵便の天の川局、という名称と神具のような3つの鈴のマークである。天の川?封を開けてみると、祭事のご案内と新型コロナウィルス感染症の影響による参詣ご遠慮のお願い、とあった。
 案内が来るということは、母は奈良県にあるこの神社にかつて詣ったことがある、ということなのだろうか。そういえば、亡くなる2、3年前、テンカワ村に行ってくると言って何日間か旅行に出たことがあった。帰ってきた母は、何がどう違うとはっきり言えないのだが、さっぱりしたきれいな顔をしていたと記憶している。テンカワ村で何をしてきたのだろう。近くにいるようで知らないことが多いものだとつくづく思う。
 案内文には夏越大祓式、例大祭、七夕祭、とある。七夕・・2年前のあの日の1週間ほど前、寿里亜の職場では、利用者のために、近所から大きな竹を切り出して、玄関に設置した。そこへ来訪者が願い事をしたためた色とりどりの短冊を結びつけて、飾ったのである。大きくてきれいな七夕飾りだったが、七夕の催しはできずじまいになった。周辺の道路が水に浸かり、サービスもしばらく中止になったからである。母が被災で死亡したため、しばらくぶりで寿里亜が職場に出勤したときも、この七夕飾りはぽつねんとして立っていた。あの日から、七夕飾りを見ると言いようのないもの悲しさを覚えた。母が、天の川を構成する小さな星屑になってしまったとイメージしてしまうからである。
 天河大辯財天社の七夕祭の案内には、こう記されてあった。「ご先祖様はじめ萬霊供養の七夕供養燈花」。振込用紙が添えられていた。母と御縁のある神社なら、母は喜ぶかもしれない。三回忌の供養のつもりで、いくらかでも振込をしようか。七夕の前夜に天に昇ったのだから、七夕の祭事で供養するのがよいかもしれない。七夕の祭事は8月25日とあった。母の命日を一月以上も過ぎているが、どうしよう。天川村、天河大辯財天社、七夕祭、天の川・・。
 5月25日になって、新型コロナウィルスの緊急事態宣言が解除された。寿里亜もまた、平常どおりの通勤が始まった。皆が皆、マスクを付けている。殻を付けて外側から自身を守っているように見える。職場でも、マスクを付けて、会議は必要最小限に、応接窓口にはビニールで仕切りをした。お昼の弁当は間隔を空けたり、別の部屋に分散したりして、おしゃべりは慎むことなどのルールが決められた。
 職場に出るようになると、仕事が押し寄せてきた。年度当初はただでさえ忙しいのだ。同僚がいるのだがこの4月からの新任なので、仕事は否応なく寿里亜に集まってきた。同僚は寿里亜よりずっと年上の、定年を目前に控えた女性である。あれこれと指図するのもおっくうで、仕事をひとり背負い込んで、残業が続くことになった。
 そんな毎日が続いたが、6月19日になると新型コロナの感染が下火となり、国内の移動の制限が解かれた。寿里亜には、天河神社へ実際に行ってみる、という想いが膨らんでいた。母がお参りをしたであろう神社。そこで母の命日を迎え、神様のもとで祈ったらどうだろう。母との縁を手繰り寄せる気持ちが強くなっていった。母の命日の7月6日は、今年は月曜に当たる。亡くなった時間に祈るとすれば、夜の間だから、月、火と休まなくてはならない。新任の同僚だけを残して大丈夫かしら、と考え始めると堂々巡りになってしまう。
 その晩もひとり居残り仕事をしていると、寿里亜は右足の裏に痛みを覚えた。歩くたびに痛いので、少しかばって歩いた。アパートに帰って靴下を脱いで驚いた。中指の付け根に直径2センチの大きな水疱ができていた。常備薬の軟膏を塗って、絆創膏を貼った。それで翌日をやり過ごしたが、3日目になると足を接地できかねるほど痛くなり、赤く腫れて熱を帯びてきた。インターネットで検索してみて、水虫なのかなと疑った。明日は金曜日。明日中に医者に行こう。皮膚科の場所も頭に入れ、帰宅途中に寄ることにした。
 珍しく定時で職場を出て、皮膚科に直行した。医師は患部をじっと見た後、水疱の少し下の皮膚のかけらをピンセットでガラス板に載せた。検査に回している間に水疱に針を刺して水を抜いた。水を押し出すときに少し痛んだが、我慢できる程度だった。検査の結果が出た。
「水虫菌は、いませんでした。汗が出きらずに塞がれて、火傷のようになったものでしょう」
と医師は言った。水虫菌がいなかったのは、意外であった。傷薬の軟膏を処方をしてもらった。ほんの3日間だけのことだったが、右足を庇うが故に変な歩き方になってしまったし、全体の歩く動作がバランスを崩して、左足のふくやはぎがよくつる。当たり前のことだが、水疱のできた右足を接地すると痛むので、そこに足がある、ということを意識する。薬を塗っていくと、痛みは和らいでいった。観察すると、右足裏は縦に深い皺が刻まれていた。寿里亜は、右足指をぎゅっと握りしめる癖があるようだった。ぎゅっと握りしめたまま歩いているし、職場のデスクに座っている。圧迫されたままで擦過傷のようになり水疱ができたのだと思った。なぜ、ぎゅっとしているの?連日の長時間の仕事でココロに負担がかかっているのだろうか、寿里亜は右足を両手で揉むようにさすり、自問するのだった。

 第5話につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?