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感覚の〈感覚〉––丸山るいの短歌について

丸山るいの短歌にはからだに関する語彙が多く登場するが、今回まず注目するのは、「歯」に関する対照的な二首である。

切り花のかすかなふるえときどきはひらいた窓のまま歯を磨く
歯の数のふいにただしくないような気がする夜の居酒屋にいて

岡本真帆・丸山るい『奇遇』より

一首目、主体は窓を開け放って歯を磨いている。切り花がふるえるのはそこから吹き込む風のせいだろうか。状況だけ見れば開放的な、爽やかですらある一首だが、そこに吹いている風は冷ややかで読者は不安を掻き立てられる。この不安は二首目がわかりやすい。抜けてゆく風は歯の確かさを揺らがす。一首目でかすかにふるえていた(かもしれない)主体の歯は、いまや抜け落ちてしまいそうなほど悲観的に感じられている。「ただしく」と躓きながら発音するとき、「た・だ・し・く・な・い・よ・う・な」の一音一音がまるでこぼれ落ちてゆく歯のように、破調の歌を指折り数えてみるかのように、ぽろぽろと際立ってくる。二首ともに、「歯」の存在に疑義が向けられる歌である。しかし前者が風によって撫ぜられる表面の話をしているのだとすれば、後者は主体が身体の中から歯の内側(裏側、ではなく)に手を伸ばして確かめているかのような印象がある。それはもちろん「磨く」「気がする」という動詞の選択に由来するのだろうが……。

骨組みのままがいちばんうつくしい家屋がすこしずつできあがる

決定的な一首だ、と思った。骨と歯という差はあれど、ここには同じ手の伸ばし方がある。この歌で主体はあくまでも傍観者にとどまっていて、家屋を作っている人のことは考えられていない。まるで骨組みが膨張してゆくかのような形で家屋はすこしずつできあがってゆく。でもきっとその「家屋」は主体とは関係のない、散歩道にある家なんだろう。家屋の内側は内側のままで、骨組みは外壁には触れていない。内部から内壁へ、という不思議なベクトルがこの歌にはある。

飛行機は鳥より鮫に似ていると舌にしまったままで会釈を
夜の舌 ためらいながらよりわける吐き出す骨と飲み込める骨

やっぱり丸山の歌は閉じている。内部の問題は内部でのみ処理される。飛行機の翼はたしかに鮫の両ヒレに似ているし、顔だって鮫の丸い顔の方が似ている。しかし、この歌ではもはや飛行機は鮫ですらない。飛行機の顔の曲線は分厚い舌のように見える、人間の鼻から顎のように見える、口腔内の空間に見える。舌のことが歌われていても、それは味覚や役割について語っているわけではない。口内で骨をより分ける基準や仕組みが問題になっているのではない。問題は、私がその舌の動きを感じているということそのものなのである。私はこの舌を知っている。私は舌が存在することを知っている。でも、どうやって?

くりかえし小指の数をたしかめる目隠しされている夢のなか
手のかたち足のかたちが頼りない からだは外野だね、たましいの
歯の数のふいにただしくないような気がする夜の居酒屋にいて

丸山は身体に関することを歌いながら、身体のことを疑い続ける。確かめられようとしているのは、身体というよりむしろ感覚かもしれない。私がそれを地下鉄だと分かるのは、きっとその光を見て音を聞いているからだ。しかし私たちは「光を見ている」ことそれ自体も、「音を聞いている」ことそれ自体も知っている。丸山の歌はずっとそのことを不思議がっているように見える。目隠しをされていて、でも(だから?)小指のことを考えている。主体にとって手足はよそよそしく感じられる。歯の数だっておかしいような気がする。どの歌も、感覚器官が感覚を受け取ることと、それを〈私〉=たましいが把握することとの間にあるギャップが前提されているように思う。感覚している内容を、あるいは感覚していることそれ自体を分かっているということ、感覚を〈感覚〉していること––丸山の歌を読むときには、このことを一緒に疑ってみると、より一層読みが深まるのではないか。

半壊の白いつつじのひだりてにあるでしょう夜の児童会館
雨の降るまえの匂いがやってきて実を剥くようにグラスを拭いた
夢だから食べるまえから味のするパンをひろばの鳩へ鳩へと

ものごとの内側への志向、内部から内壁へのベクトル、感覚の〈感覚〉。以上のことを踏まえた上でこれらの歌を読むと、主体の位置がぼんやりとはっきりしてくるように思う。丸山の歌に「夜の」という修辞が多いこともこのことから納得できる。「夜の児童会館」は「昼の児童会館」のことを示唆しつつも、夜の外側に出ることを決して許さない。世界はからだの中の暗がりのうちに閉ざされてしまう。

からだのなかを暗いとおもったことがない 風に痙攣する白木蓮/大森静佳

大森静佳『カミーユ』

舌の遅いわたしのなかの速い血が採血管をつぎつぎ満たす
血はいつも思ったよりもあざやかで自分の骨を見たことがない
電極はひだりに群れて心臓がここにもあるというリアリティ

丸山るい「やわらかな検査」『短歌研究』二○二三年七月号

だからこそ、丸山の短歌研究新人賞候補作は衝撃的だった。主体は自身のからだのなかを覗き、しかもそれを検査の対象となるように外部化しようとする。選評でも語られているように、ここには身体感覚の再発見がある。『奇遇』においてひたすら感覚の〈感覚〉に疑問符を投げかけていた主体と異なり、「やわらかな検査」の主体は感覚を一度取り出すことで、その疑問符を一旦脇に置いてしまう。個人的には『奇遇』の揺らぎつつある感覚の方が好みではあるが、「やわらかな検査」の妥協には何かコミュニケーションの予感を感じる。「心臓がここにもあるというリアリティ」のことを主体はまだ信じていない。けれど、それがある種の「リアリティ」なのだということまでは、認めていると思う。


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丸山るいさんに新作20首を寄稿していただいた、上智大学詩歌会の機関誌『上智詩歌』第二号の発行が決定しました!

巻頭寄稿連作「真鍮」からの一首評もソフィア祭当日に配布するフリーペーパーに掲載予定なので、ぜひそちらも併せてご覧ください。

それではよろしくお願いします。

https://x.com/sph_vesper/status/1716787480349786527?s=46&t=S5ZHJQtUgdr_9lNJq4uR9g


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