『なぜ「三四郎」は悲恋に終わるのか ――「誤配」で読み解く近代文学』

『なぜ「三四郎」は悲恋に終わるのか ――「誤配」で読み解く近代文学』

著者:石原千秋

出版社:集英社(集英社新書)

発行年:2015年3月22日

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 本書の肝となる「誤配」について、ざっくり書きます。ジャック・デリダという思想家がこういう文を書いたようです。

 「手紙は必ずしも常に宛先に届くわけではなく、そしてそのことが手紙の構造に属している以上、それが真に宛先に届くことは決してなく、届くときも、〈届かないこともあり得る〉という性質が、それを一個の内的な漂流で悩ませていると言い得るのである」

 この文は、精神分析家のジャック・ラカンの考えに対しての批判だったそうです。ジャック・ラカンという方は、(石原さんが言うには)文字と意味との関係について深く考えた人だったらしく、ポーの『盗まれた手紙』(名作!)にかこつけて、こんなことを言ったそうです。

 「手紙というものはいつも送り先に届いているということなのです」

 なんか分かりそうで分からないやり取りですが……。石原さんの解説によると、ここで使われている「手紙」は「文字」の比喩だそうです。つまり、ラカンは「文字は常に意味にたどり着く」と言い、デリダは「文字は意味にたどり着かないこともある」と言っているわけ、だそうです。(ああ、ここまで全部16頁・17頁の文章を都合よく抜き出してるだけ……!!)そこから、なんやかんやで、デリダが言いたかった「言葉の意味に正解はない」という論を、石原さんは意図的に誤読あるいは応用して、「手紙には誤配の可能性もある」と読み換えます。石原さん曰く、

 「言葉」も「手紙」も「誤配」されたときがもっとも生き生きしているし、面白い事件が起きやすいことに気づいておこう

 そこで「まえがき」に戻ります。石原さんは、〈近代の恋愛小説を読むのになぜ「誤配」という概念が求められるのか〉への問いに対して、〈「彼女/彼が自分の正しい恋人ではないのではないか」という疑念のこと〉を念頭に入れて読むのが、有効に機能するのではないかと返しています。

 よし、ここまでほぼほぼ書き写しで恥ずかしい限りですが、この読み方が自分にとってとても斬新で、知的好奇心を高めてくれるものなので、時間が経っても忘れないようにするために、ここに書き出している次第です。

 そして、この「誤配」をもとに、『三四郎』や『蒲団』、『雪国』などの作品を読み解いていきます。漱石作品しか読んでいない私でも、他の作品もすごい興味深く読むことができました。(それに満足せず、ちゃんと諸作品も読もう……。)

 また、何年か前、石原千秋さんの漱石研究の本を読んだとき初めて出会った「テクスト論」という名称が記憶の底から浮き上がってきて、一人で静かに興奮しました。これだ! 自分の読み方の影響を与えたやつだ!(口が悪い。)

【追記】

 久しぶりに石原千秋さんの本を読んだので、興奮して『読者はどこにいるのか 書物の中の私たち』(河出ブックス)を買いました。ゆっくり読もうと思います。

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