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映画感想『復讐するは我にあり』

※ネタバレあり

『復讐するは我にあり』(1979年 今村昌平監督作品)

20代の頃に観て、強い感銘とショックを受けた作品。本作における主演4人の演技にはけっこうな衝撃を受けた。特に緒形拳、多分「鬼気迫る」なんて世の中では多く評されてると思うけどまさにそんな感じ。

理解しようとしても無理というか、「殺人に関するためらいのない人間」で「利害関係なく人を殺してしまう」ような人間をどう演じるか、というのはかなり難易度の高い演技的登山だろう。

榎津巌という主人公、殺人衝動と強奪のほか詐欺師としても犯行を重ねる。自分でない誰かを演じて、相手を信用させ金を引き出すのが巧い。虚構に生きて現実に帰るとき、自分の境遇を思っていら立ちをつのらせる……とか、せっかく得た他者からの愛情も自らでぶち壊してしまうような幼児的な加虐性、といった平凡な解釈も榎津巌に関しては無意味に思える。緒形拳もそういう意味づけや読み方が出来ないような演じ方をしていて、そこがまた怖い。

殺人者の彼に関わってしまう運命のタイミングの描き方、再見して心に残った。2回、タクシーが小道具として使われる。
「ずっとタクシー待ってたんだぞ!」
そんな物言いをつけて相乗りにならなければ。
「このへんにいい旅館ない?」
この運転手があそこを案内しなければ。

1秒でもタイミングが違えば、「彼ら」は殺されなかった。

私も、いや世界の誰もが「数秒」の違いで異常者との接近を逃れられて、今を生きているのだ。私たちは常に悲運、あるいは幸運とのすれ違いの中にいることをまざまざと感じさせられる。

残虐な殺害、家庭内暴力やセックスシーンも多い本作、広くはすすめにくいけれど、とにかく密度の濃い、すごい演技が詰まっていることだけは確か。榎津の父親を演じた三國連太郎の老け方やいかにも地方のおじさん、という雰囲気と外見の作り方、小川真由美の哀感と土地言葉のつかみ方、死にざまの演技にやっぱり圧倒された……が、スクリーンで観るべき映画だなとも。

しかしまあ俳優のキャスティングの豪華なこと。フランキー堺が刑事役であれだけしか出てこないとは。火野正平なんて当時のイメージまんまの役どころ、絵沢萠子さんはのちの『マルサの女』でも同じような役でしたね。根岸季衣(当時はとし江表記)さんもびっくりした。ステッキガールって言葉、私知らなかったよ。

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