閉じた世界に思うこと

生き方の話をしよう。

新型コロナウイルスの感染拡大防止に伴う緊急事態宣言(長い。「異世界に転生したら◯◯した〜」系ラノベや漫画のタイトルよりも長い。困る)の発令により、絶賛引き篭もり生活を送っている日本。

・仕事をしようにも在勤では限界がある
・仕事をしようにも会社が閉じている
・仕事をしたくないのに出勤
・仕事がむしろ超絶過密化した
・仕事をそもそも失った
・推しを追えない(重要)

他、挙げていけばストレスのバリエーションはきりがないだろう。

2月の中頃、朧げに

「極限状態に追いやられたら、人類は何を選択するのかなぁ…」

と、中二病的な不安を感じた。現状はどちらかと言うと、急変ショック死ではなく、緩やかに死に向かう世界という様相だが、洒落にならない状況に発展してしまったことが悲しい。

今回はグローバルな視点はさておき、とりあえず日本国内の状況について考えてみる。

この間、強く感じたことは大きく2つ。

・仕事も学業も、格差が拡大する
・表に出さなくとも、各々の「生存優先順位」が剥き出しになっていくだろうこと

前者の「格差拡大」については、別の手記でまとめ始めたので、後者について少しだけ。

まず前提として、ぼくらの国にはもう、「全てを救う力はない」と思ってる。正確には世界全体がそうなのだけど、延命治療で結論を先延ばしにしていたところに、急遽容態が急変した感じだ。

どの産業を活かし、どの産業を殺すか。
どの世代を活かし、どの世代を殺すか。
どの水準の家庭までを活かし、それ以外を切り捨てるか。

その選択を、政治家も国民も迫られるだろうと感じた。

全員で幸せになれるなら、それに越したことはなかった。けれど、それはどだい無理なことは、多くの国民が自覚していると思う。
日本には若さがない。地下資源もない。企業競争や技術競争でも、世界のトップシーンについていけなくなって久しい。

そうなると、究極的に選択肢は2つに絞られる。

救う相手と切り捨てる相手を選んで、特定の相手だけを救う発想か。
全員を生かす(救う、ではない。生きているだけだ)べく、全員で少しずつ痛みを共有する発想かだ。

政治家は、実際にそれを実行力として行使できる立場にいる。実際に為政者達の行動は、誰を、何を救いたいかを雄弁に物語る。

国民の方も、どうしたって日常の言動が先鋭化していく。人は余裕がなくなればなくなるほど、自分と共通項の多い人間を選別し、守ろうとしてしまうからだ。生存戦略として、本能的に逃れられない心の動きと思う。
必然、自分を脅かしかねない対象、異なる行動原理で行動する人間をグルーピングし、攻撃、排斥する傾向を強めてしまう。ネット上に留まらず、直接行動に移ってしまう人も出てきている。

「間に合うかなぁ……」

色々な意味を込めて、最近は関連ニュースを見る度、そんなことを考えながら過ごしている。
新たに書き残したいことができれば、次回があるかもしれない。


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