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「確信がないこと」を「断言する」ということ。

生き方の話をしよう。

自分には自信がない。確証がない。
万人に向かって「断言」できるのは、“自分という存在自体に自信がないこと”ぐらいかもしれない。

見たこと、聞いたこと、つまり体験に基づく一次情報については、少なくとも何十%かの事象的信頼はおける。しかし、

「自身の内面的情報処理に、何らかの過ちがあるのではないか?」

という疑問も常に付き纏う。
自分がとりあえず、表面上だけでも「断言」を態度で表せることは、様々な情報を内部で繋ぎ合わせた結果、9割方以上の確証が得られた場合がほとんどな気がする。

四十路を間近に控え、様々な経験を積む機会に恵まれたこともあって、ようやく少しずつカバーできる世界が増えてきたところである。反面、いかに自分がものを知らないのかも、また実感できるようになってきた。

知識の幅が広がれば広がるほど、自分が確信・責任をもって情報を発信することの難しさ……と言うより、現実味の無さを実感できるようになってきた訳である。

自らの見識の不足を恥じる。
誰かに何かを伝える度に、大なり小なり、勇気を奮い立たせる必要がある。

そんな自分にとって「断言すること」は、本当に難しい。

自分の立ち位置を確認しながら選択をし、その時点で最もリターンとリスクのバランスが取れると感じたことを、アウトプットしながら過ごしているのが実際のところだ。

「断言」「断罪」「恫喝」することへの恐怖

そんな訳で、自分は「断言」できる人の強さに憧れる。

同時に、ある種の恐怖すら、抱くことがある。

何をもって、そこまで自信満々に
「これが正しい」
と主張できるのか?
それがどうしても、実感できないからだ。

世の中、時代と共に科学が進歩し、論理的に理解できることが増えた。
万人が認める根拠ある情報、例えば
「多くの場合、新鮮な野菜を口にしないことは、健康上良くない」
「栄養はバランスよく摂取した方がいい」
「睡眠時間は個人差こそあれ、不可欠」
のようなことであれば、安心して知見として採用し、行動基準にできる。

それでも他人に、
「絶対の価値観として、実行を要求する」
ことはできない。紹介するか、働きかけるか……あるいは嘆くことはあっても、責めることはとてもできはしない。

誰の目にも明らかでない、科学的可視化に限界のある分野は尚更だ。
立場が違えば主張も違う。人類史において普遍的な、絶対的法則と万人から認められた事象等はともかく、該当しない意見は多い。
それぞれの立場から見聞きし、考えた末の「真実」なのかもしれない。当人が信じる100%なのかもしれない。
だが、万人の目に明らかな「事実」でないことも多々ある。

……と、こんな風に考え、感じる故に。

何をもって、相手を「言葉で殴る」ことができるのか?
何をもって、「断罪」「恫喝」することができるのか?

「◯◯は間違っている!」
「なんで~~するのか?結局バカだっただけか(笑)」
「これからはこういう行動を取ってくださいね?」

のように発言できる人達が、本気で恐い。

そこまで純粋に自分の知見を、行動が正しいと信じられる、その迷いの無い様が恐い。
相手の言動を価値なきもの、あるいは明確な過ちとして、一方的に批難を浴びせることのできる様が恐い。

そんな訳で5月11日は、Twitterを始めて以降、最もTwitterを開くのが憂鬱な1日の一つだった。
これは、検察庁法の改正に賛成するか、反対するかの問題ではない。

実際、多くの友人がTwitterでハッシュタグを使って意思表示をしていた。
義憤に駆られて行動している人もいれば、迷いながら発言している人も多かった。

わかる。

距離を置きながら、ハッシュタグを用いずに、自分の見解を述べている人もいた。
これも賛成、反対の立場の人がそれぞれいた。

わかる。

根拠をもって、賛成の立場を表明する人もいた。
根拠となる考えを提示しつつ、ハッシュタグの拡散へ異を唱える人もいた。

わかる。

しかし、ネット上には、より強力な「言葉」の数々でもって、意思表示をしている人も見られた。

ハッシュタグを使って反対の意を示す人を、攻撃、罵倒、嘲笑、恫喝している人がいた。

ハッシュタグを用いて反対の意を示しながら、断罪の対象を肥大化させ、意思表示を万人に要求している人がいた。

どちらも
「自分と違う立場の者は敵」
という、明確な意思をもって行動しているように見えた。

わからない。
全くわからない。


恐い。


迷いなく他人を傷つけかねない言葉を浴びせ、他人の言動を価値付けられること。他人の存在価値すら断定できること。
自身と価値観を共有できない相手を断罪・恐喝・攻撃することにおいて、一様に団結できる姿勢。

理解できなかった。
いくつかのTweetには、本当に恐怖を感じた。

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不満を抱えた人も、不安を抱えていた人もいるだろう。
度重なるストレスで、発言が過激化してしまった人もいるだろう。
それは理解できる。自分自身にも同種の経験はあるからだ。

それでも、理解できない振る舞いであったり、単純に攻撃性の高い言葉や態度であったりは、見ているだけで人間を消耗させる。少なくとも、自分の場合はそうだった。

いつ、どのタイミングでTwitterを開いても暗鬱たる気持ちになったことで、自分が本当に耐えられないものが何か?
それを理解できた1日になったことは確かだ。

誰かに「これが正しい」と提示できるほど、自信はない。
誰かに「こうあらねばならない」と説けるほど、確信もない。

せめて自分自身は、自分が現時点で生きやすい、護りたい倫理や道徳のもとに、日々を過ごしていこうと思う。

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