名古屋へ [1]
薄明です。先日、名古屋へ行ってきました。縁のない土地ではないのですが、一人観光がてら、となると初めて。普段SNSを通じて交流や作品を拝見している絵描きの玲愛さんの個展があるとのことで、見に行ったのでした。玲愛さんは4月には私の個展にも足を運んでくださった方です。
持って行ったカメラはデジタルがNikon DfにAi-s Nikkor 50mm F1.4、Ai Nikkor 35mm F2.8、Nikkor-P Auto 105mm F2.5。フィルムがNikon New FM2、中判フィルムがMAMIYA6。フィルムはVenus800、Kodak Ultramax400、C200、PRO400H。
朝6時ごろ駅に着いた途端、バケツの水をひっくり返したような雨が降り注ぐ。そうっとバスに乗り込む。傘は持ってこなかったけど、あちらは大丈夫だろう。そう思って着いた名古屋、変わらず土砂降り。
たまらずビニール傘を買って電車にて移動。しかし程なくして、窓の外はからっと晴れて雨の形跡すらない。
駅から少し歩くと会場になっている「六弦とコットン」さんに到着。
会場での様子。青や緑が壁に広がり、ネット越しではわからなかった原画の質感が美しい。
玲愛さんが在廊されていました。作品についてや、絵について、詩についてなど、ゆったり静かにいろんなお話ができました。ありがとうございます。コットンさんのランチのサンドも珈琲も美味しかったです。
イベントではギターの演奏や朗読などがあったそうです。行きたかったけど仕事でした。
絵画がほとんどではありますが、写真の作品も。プリントして仕上げる工程が、絵画技術を応用したものだったりして面白い。
「懐かしいということ」。私にとって懐かしさ・記憶は何色がトリガーになるだろうか。私自身の場合だと色だけで完全にトリガーにはなれなくて、「黄色や緑」+「匂い/触感/温度」で、離れた故郷の田畑を思い出すことを話す。オイルパステルの作品で「わたしのいえ」だったかが好きだった。 「記憶はやがて殻に宿る」と玲愛さんは言う。家、土地、いれもの、殻……自分自身がもっとも近しい殻だろうか。自身の肉体を殻として認識することで何か変わるだろうか。ここのところ、私が自分の記憶だったり感覚だったりを三歩進んで二歩下がる、あるいは四歩下がるくらいの感じで自分を読もうとして試行錯誤している。だから何か新しいものを外に出せてはいない。ときどき、自分の足が歩こうという意志に応じて自然と動いてくれることにも不思議に思う。手や指が、ある程度は思う様に動くことにも。自分の外殻が…世界と接している、曝されている、薄い薄い殻だ。そこに社会的な強度はない。
会場を出た後、有松の街並みをしばらく撮り歩きました。絞りが地場産業ということを、来てから知る。
有松は少し通り雨があったくらい。しかし厚い雲が遠くに見える。近くは晴れているので、合成されたみたいな画になっている。
このあと有松を後にして、熱田へ向かった。続きは今度。