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振り返るのが楽しいということと量が質を形成すること

こんにちは、薄明です。今回も、当たり前のことをわざわざ文字に起こしているので、不自然な感覚を持たれる方も多いかもしれません。

何か期間の区切りであったり、記念日だったり、そういうものが特別好きというわけではないのですが、ふとしたときに意識すると、その経験や思い出を振り返ってみたくはなります。そして細かな区切りがたくさんあって、そのときの自分の気持ちが稲穂の風になびくようにわあっと広がっていくのですが、一通りそれを思い起こすと、また不思議と静かに忘れていきます。風がやむように、私はすぐにものを忘れる。

私にとってこの秋は、フィルムカメラを始めてから二度目の秋、つまり一年が経ったんだなという感慨を持って迎えられたのでした。その間に何台のカメラ、何本のレンズ、何本のフィルムが手元にやってきたかは、改めて述べる必要はありません。いずれも私の写真生活を累積する糧となったのは間違いありません。

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(上 自分でスキャンしてみるも、思うようにいかなかったあの頃)

自分の写真の楽しみ方はたくさんありますが(「はじめまして」などで述べています)、そのうちの一つの側面に振り返ることというのがあります。言葉にするととても単純で、当たり前すぎることですが、もっともこれは私が特別写真という分野だけに限定しているわけではありません。自分の経験や思い出を、一年前はどうだったろうかとか、半年前はどんなだったろうかと思い返し、そこで気づいた点をまた現在に持ち帰る行為を言います。ただし、ここでは趣味である写真の分野の話ですから、そこに生産的な意義を見出す必要はありません。自分の技術の進歩すらとりたてて確認する必要はない。

私はあまり人を撮ることができないので、話に挙げているのは基本的に「場所」となります。人を撮り、その人やシチュエーションに記憶が紐づけられることももちろんありましょうが、残念ながら私にあまりそのストックが多くないため、自分なりの考えを持つには至っていません。ただ、例えばフォトウォークでお会いした人の写真など、Web上にはアップしていませんが、そういったのを見返してはその日のことを思い返したりはしています。なので、やはり人のことを思い出すのも、人を見て「この人とはどこどこへいったな」とか思い出すよりは、場所から「あの人と来たな、何を見たな」というように思い出すことが多いです。

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そう、通常「写真」「思い返す」という行為から連想するのは、写真を見て、ああここに行ったなとか誰と何をしたかとか、どんな気持ちだったかだったりするのですが、私は割とその現場で思い出すことが多いです。その場所で、ああ、前にここで写真を撮った時はこんな季節で、ああいう状況で、とか、カメラを持ってき過ぎてカバンが壊れたなとか、雨でカメラを持ちづらかったなとかそういうことを思い出します。そしてあの写真が撮れたんだ、と思い出します。(もちろん写真からその時のことを思い出すこともあります)

場所から写真と経験を思い起こし、その思い出を点検してまた仕舞う、というような楽しみをしています。一方、毎日つけている日記は欄内を文字で書きつぶすような形式をとっていて非常に淡々として記録的なものなのですが、読んでいるとその一日や書き記された状況が思い浮かびます。メモにしても、何年か前から始めたこの日記にしても、私は記録するのが好きなようです。

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私の撮る写真の性質のひとつに、「記録する」という面がありますが、私が文字で記録していたことのの拡張が別分野の「写真」という手段に及んだという感じです。記録とはいえ、私が撮る写真には私の粒子のようなものが写りこむような気がしますが、やはり手段と言ってしまえるほどに、それは希薄なものです。その目的においてはそれでいいと思っています。撮った今現代において一枚だけ見ても、感ずるものはなかろうと思います。

しかし私は、こと記録というものは「量が質を形成する」と思っています。「量は質に勝る」とか「量が質をつくる」ということばは一般的にも聞かれますが、その場合は大抵「(質を)つくっている」のは撮り手の技術や感性といった、写真の外側にあるものです。もちろんそれをもって、より撮り手がつくるものを洗練していくのですが。私の言う「形成している」もの(質)というのは、写真の累積が持ってくる意味のようなものです。

以前の投稿でも書きましたが、私が街並みスナップを好んで撮ります。その理由です。ただ自分があ、いいなと感じてシャッターを切るのですが、いま見ている景色(とくに街並み)は意外とあっという間に変わってしまうもので、また、道行く人々の姿もまた、時代時代で変わっていくということを感じています。

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何気ない風景であっても、何十年か先にこの写真が何らかの形で残っていた時、風俗資料となりうるかもしれない。どんな建物があったか、どんな看板、どんなフォント、どんな形式の掲示物、どんな服装、どんな眼鏡、年齢層、電柱・電線、車、携帯電話…写っているものの情報は、その撮られた時代を定める要素として、どれもが重要であることを私は20代の頃気づきました。仕事柄、調べものをしばしばするのですが、そういったものが貴重な資料となりうるのです。なので、ある意味では自動的に薄明が撮った写真で、一見退屈な風景の写真であっても、消さずに残したりしているのはこういった理由からです。

だからといって、そういった写真ばかりを蒐集しているわけではありません。あくまで写真は趣味ですから。しかしいくつかの撮り方をするうちのひとつとなる程度には意識されています。自分の写真が残るとは限らない。けれど残らないとも限らないでしょう。(これはプリントした方が残るだろうというのは思っています)

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誰かが、自身だとか、誰かの関わりのある土地や時代を振り返るとき、それがその人自身が撮った写真でなくても、一枚の写真に固定された時代の空間が何かの手掛かりになったら、と思うのです。あくまで、数多くある(さらに言えば人の数だけある)写真の楽しみ方や意義、そのうちのちいさなひとつではあるのですが。それと、誤解のないように申し上げておくと、あくまで誰かの役に立つかもしれないというのは副次的なものであって、99%以上は自分だけのために写真を撮っています。実際ファインダーを覗いているときに後世のことを考えているわけではありません。頭の中にそんな余裕はない。

けれどそういう目的で撮ったような写真も生まれてくるのは不思議です。どこまでが意識的で無意識なのか、カメラを触っているときの自分はとうに過ぎ去ってしまっていて、いまではわかりません。私の中で三者くらいが按配よく操縦しているのでしょうか。なにはともあれ、結果としてこの類の写真が累積することで、ある一定の意味を持つ(かもしれない)、ということを私は申し上げたかったのです。記録は自分自身の記憶との紐づけだけでなく、他者の記憶にも結び付く可能性があるということでした。

またまとまりのない文章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。それでは、よき写真生活をお送りください。