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薄明詩集I『執着点』について

こんばんは、薄明です。

今日は数か月前にプレスした詩集について書いておきたいと思います。写真と関係ないようではあるのですが、写真詩集と言えないまでも、挿絵のように写真を使っています。形態として写真が無関係ではないのでここに一度書いておこうと思います。内容的には、私の中で写真と詩はより親密な関係にあります。あらかじめ申し上げておくと文字が多いお話になりますので、そういうのは不要という方はここで閉じられた方が良いです。なんというか、結論や落ちはないです。

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いつかの展覧会で自分なりの詩論と詩をたくさん展示したことがあります。そのときに知らない人が私の詩にその場で共感し、感動したと言ってくださったのが私を支えるたくさんの枝の一本になっております。そして、Twitter等で繋がった方たちからのことばも、たくさんの枝になって、私を支えています。

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詩が生まれる

そう、で、詩論というほど大層なものではありませんが、(展示物で)私にとって詩がどのような形で生まれるかという話を書いていました。私にとっての詩は音であると書きました。

それが全てではないにせよ、多くの私の詩が肉付いて産まれ湧いてくるとき、それは意味だとか感情だとか、ましてや伝えたいことなどといったことなど存在せず、もっと原始的な柔らかい感覚的な音が魂のような核のようなものを抱え込んでいます。意味や感情はそこに含まれているのでしょうか。実はよくわかっていません。そこから無心で形なしてゆく中で、詩は私の過去にさかのぼり、そういったものを獲得しているのかもしれないし、もともと内包しているのが露出してくるのかもしれません。

いずれにせよ、私の主体性のほとんどは詩作のとき、できる限り蚊帳の外に放り投げておくことが多いです。意識して整形する段階までは外に居てもらわないと、初期の段階に自分が降りて行ってしまうと、どうにも肩ひじ張った、上手く作ろうという意識が強いものになってしまいます。いまでもそうなってしまうことは多いので、まだまだ未熟です。私はある意味では写真を撮る薄明であって、またその奥にいる薄明とは精神の生業が違うような気がしています。

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また、写真を撮る行為の最中に、実は詩は浮かんでいません。撮っているときは写真でいっぱいのことが多い。しかしながら、わからないとは言いながらもそのとき感応したものを撮っているのですから、内部に詩を孕んではいるのでしょう。上がってきた写真と相対し、見つめて、言葉が生まれてきたのであれば、それは写真からとりあげた赤子のような詩です。

写真から詩は生まれる。しかし音として生まれてくるものが詩とはなっても、写真にはならないのだなと思います。音から画には私は変換できないらしい。また、言葉を写真にするのは、先ほども言ったように「上手く作ろうという意識が強い」写真になってしまいがちです。できるかぎり音の原型を残したままであればあるいは、とは思いますが、無理にすることではないなと考えています。

目的をもって生まれるわけではないが自分のために生まれる

表に出すときにはさすがにある程度形を整える段階で、いつも投稿したり書いている形になっています。詩は自由だなと思っています。自由というか、写真以上に誰にもそれを理解されなくてもよいと思っている分野です。写真も自由に撮っているし、自分の好きを撮って気持ちよくなることができればそれでいいとは思っていますが、それでもやはり、自分の中の「他人に共感してもらいたい」という気持ちがないわけではありません。

しかし詩はそれすらもない。自分と薄明のためだけに生まれてくるものがある。最初からずっとそうだったわけではありません。むしろ、大昔は中学生の例にもれずああいう分かりやすい詩を書いたりもしていましたし、そこから人とのつながりを求めるようなものも書いたりしていました。(中学生の頃はある意味自分のためだけの詩だったかもしれません) 

しかし今また、きっと最初の地点に立ち戻って、自分の感応から生まれた音を読み解くように詩を書いている気がします。(大仰な書き方をしていますが、そういうときもある、くらいに受け取ってもらえれるといいかなと思います。私もわかりやすい詩も書きます)

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写真も自分自身の「感応したもの」を撮り写すことが、私のやり方のひとつであることを以前述べました。詩もまた、「感応して生まれた」もので、たがいに近しいものであると今の私は認識しています。しかし自分の作風が定まらず、常にこれらの精神的な方式が成り立っているわけではないのです。それが少しもどかしくはあります。しかし今くらいのバランスでもいいのかもしれません。本当に心の赴くままを写し、書き出していく「だけを続けていく」と、きっといのちを削っていくような気がするからです。それもひとつのやり方ですが、私はそこまでストイックな人間ではないはずです。

さて、話は戻りますが、薄明としての詩集を作りました。(展示会云々は薄明以前の活動です。今もやめたわけではありませんが) 主に写真を撮りながらその中で生まれた詩と写真をさしはさみながら24pにまとめました。

薄明詩集I 『執着点』

テーマを決めて書いたわけではなく、また写真を撮っていたわけではありませんが、とりあえず第一弾、最近書いたもので気に入った詩をいくつか収めようと整理していった結果、なにか薄っすらと共通する感覚がありました。それが『執着』です。人や関係性に囚われた終着点としてのもの、それは自分がそれに執着しまいとしていることの裏返しで、また結果でもあり、過程でもあります。シュウチャクという音から、「終着」(結果)と「執着」(過程)の二つの意味が発生し、点として重なります。はじまりの詩集に終わりの名前をつけるのもどうかと思いますが。一冊の中にストーリーはありませんが、集まった作からそのように名付けました。一冊800円で販売しています。買ってくださった幾人の方に感謝します。幸い、それぞれの方々からご感想を頂いて、こちらとしても大変に感激しております。(鍵のない方で少しご紹介。なにかあったら削除します)

いま2集目を作成中です。年内くらいに完成できたらいいなと思います。