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お久しぶりです(生きてる記録)

昨日、何週間かぶりくらいに夜にシャワーを浴びた。洗顔料を泡立てて顔を洗うのもいつぶりだろうか。鼻の横の毛穴が白く目立つようになってきて、いくらマスクで隠れるからと言っても、これはまずいと思って、薬局でお試しサイズのDUOを買った。薬局には結構行ってるけれど、洗顔料やクレンジングを買うのは久しぶりで、ここ最近はその場に立つけど選べない、という状態が続いて、結局何も買わずに帰ってきた。

選べるのに選べない。

私の人生にはよくこのようなことが起こる。

選ぶ、という行為を私はすんなりと出来ない。だから何か1つ買うのもものすごくエネルギーがいる。散財をしたことないが、時々自分の心の赴くままにお金を使いたい、という思いがある。本当に、明日生きていないとすれば、今日が生きている最後の日だとするならば、私はお金を使えるだろうか。

選ばない、やらない、出来ない、ということに慣れ過ぎてしまった。ほしいものは頭の中で補えた。リアルを生きるためには思考に回すエネルギーを減らさなければならない。思考の中で生きる、という言葉がある。私はいつからか思考の世界の住人だったと知った。では、ここにいる私はただの肉体なのだろうか。精神と肉体はつながっているというが、私の場合は切り離されていて、肉体は精神のいうことを聞いてくれないし、精神は肉体のいうことを聞きたくない。お互いに分かり合えないものを抱えて、私の魂はいったいどこへ行くのだろうと思う。

今、私は座っている。ベッドから起き上がれない日もあるから、こういう日は奇跡に近くて、でもそれを喜ぶほどでもないし、これでようやく苦しみから解放されたとは思わない。今日がたまたまそういう日なのだと、淡々と受け止める。今日できたことが明日も出来るとは限らない。私の今日と明日は明確に切り離されていて、明日生きていることすら分からないギャンブルな毎日だ。生きることを選ぶというか、朝に目が覚めて「ああ今日は生きるのだな」と思う感じ。自分で選んでない、与えられた生を受け取っているだけ。自動的な生だ。

でもこの文章は生きている私が書いている。書いているということは生きているということ。多分あと数時間は生きている。はず。

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