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逃避、創造。

多くの場合、私にとっての創作の根源は現実逃避である。
規定された現実という場から逸脱し、規定とも規則ともつかない曖昧な場で勤しむ自慰である。
マイナス方向の自慰とも言える、苦しみによる快楽、あるいは痛みを伴う排泄だ。
全く矛盾する二つの概念が重なり合う時、創作は成立するように思える。
人類が何かを作ろうとする時、それによって壊される対象が存在しなければならないからだ。
生命、概念、枠組み、法、波長、空気、流れ、意味、どれでもよい。
我々は、我々以外の何かを破壊し、作り替えることで発展を繰り返してきた。
獣の命を破壊し、その生命漲る筋骨を砕く時、石器が生まれるように。
悠久により穿たれた洞窟の闇と沈黙を荒らす時、篝火と壁画が生まれるように。
創作と芸術は、自然と名のついた未知の現象を破壊する動機が具体化する母体である。
現代の我々にとっての自然とは、見えない線によって区切られた領土であり、国家であり、社会である。
承認も理由もなく存在するかのように見えるそれらの自然は、新たな人類によって壊される対象だ。
破壊の道具として生まれるのが創作と工作の欲求とその実行の結果であり、破壊の動機そのものに最も純粋に洗練された物が対象に致命傷を与える。
その動機は、未承認の自然がそこにあるという不快と、哀れな憧れによって生まれる。
現実という自然現象そのものを破壊する動機は、人間が生まれ、何らかの自然的対象に不快を感じた段階で形成が始まる。
その不快を受け入れる人々も多く存在するが、その場合それは不快な対象として不十分であるか、自身による承認のプロセスを踏んだ結果であるからだ。
自然として振舞うもの、それは我々の承認を待たずして生前から存在するという仮説の具現である。
仮説の破壊によって科学が正しさを加工できるように、始まりと終わりを我々の手によって断定する時、必ず破壊の道具が必要になるのだ。
即ち、時間を測定する場合、我々は常に自然的対象を破壊しているのであり、その破片や亡骸は、我々が秩序として崇拝する偶像そのものだ。
現実から逃避するという自覚は、何かに対する破壊の衝動そのものであり、その残酷さから目を背ける振る舞いこそが逃避である。
つまり、逃避というベクトルは創造を向き、現実への適応とはどこにも向かわずベクトルを失うことである。
ベクトルを失った人は、もはや人とは呼べないだろう。

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