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国宝・重文だらけの特集の後期が始まりました@東京国立博物館……模本・模造展(後期)
東京国立博物館では、今週も展示品の入れ替えが行われました。注目したいのは、今週から約1カ月展示される「東博の模写・模造ー草創期の展示と研究ー」の後期です。
要はニセモノ展なのですが、ニセモノを作ったのが、横山大観や橋本雅邦など、明治期の美術界を代表する人たちです。
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先週までは前期の展示期間でしたが、展示品が完全に一新されています。そんな新たに展示された中から、おすすめの品を紹介していきます。
なお、すでに見られなくなりましたが、特集の前期のレポートもnoteに記しているので、ぜひご覧ください。
■『法隆寺塔本塑像 女子坐像(模造)』
森川杜園さんという、幕末から明治にかけて活躍した彫刻家による、模造です。森川杜園は、特に一刀彫の奈良人形の制作を軸に、奈良で活躍したそうです。
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この素朴な塑像を見た時に、思い出したのが、トーハクの東洋館に展示してある、前漢時代に作られた『加彩女子俑』です。俑《よう》とあるので、兵馬俑と同じようにお墓に埋葬された人形です。
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こうして『法隆寺塔本塑像 女子坐像(模造)』と『加彩女子俑』を写真で並べてみると……たいして似ていませんね(笑) ただ、かつては鮮やかな色だっただろうに落ち着いた色合いになっている点、そしてその静かな佇まいとが、似ていると感じたのでしょう。
どちらも雰囲気が好きです。
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■『上杉重房坐像(模造)』
佐藤運久さんが明治30年、29歳の時に作ったものです。原品は、あじさい寺としても知られる、鎌倉の明月院が所蔵するもので、像じたいも鎌倉時代に作られました。模造は原品の1/2の大きさだそうです。
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この佐藤運久作の模造を見た時に、見つめられているように感じました。もしくは、小さな人がかたわらに座っているような……生きている感じがしたんです。
足の部分……下半身の表現以外の、上半身のリアルさ、写実的というんでしょうか。特に顔の表情は、本当に生きているようです。また、烏帽子というでしょうか、この帽子の前方がポコっとへこんでいる感じとかが……。
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わたしからすると、ものすごい秀作なのですが、模造を作られた後藤運久さんをネットで調べても、簡単には詳細が出てきませんでした。解説パネルには「鎌倉で仏師として活動していた後藤家の末裔」とあります。「明治時代になると神仏分離政策により、造仏需要が激減したため、後藤家は木彫技術を活かして、鎌倉彫を家業にするようになりました」とあります。
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■『扇面法華経冊子(模本)』
四天王寺が所蔵する国宝『扇面法華経冊子』の、5帖のうち43図を、寺崎広業と小堀鞆音が模写したものです。
いやもう、繊細な筆づかいで……なんて褒めればよいものか……。
桜の花びらが散ったり、雪が舞ったり、御簾ごしに見える女性の表情とかが、なんとも素晴らしいなぁと。絵やその構図がすばらしいと同時に、作者が情緒のようなものを感じただろうポイントを、すんなりと共有できることがうれしいです。
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描かれているのが、どんな場所なのかわかりませんが、水が流れる様の描き方がいいなぁと。白い線がすぅ〜っと引いてあるだけなんですけど、水が流れている感じが十分に伝わってきます。
■橋本雅邦が模写した『寒山捨得図(模本)』
天遊松谿・筆(原本:愛知・徳川美術館所蔵)
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寒山捨得図という絵自体も、原本(本物)を描いた天遊松谿さんも、正直、聞いたことがありません。ただし模写したのは、近代絵画を代表する一人、橋本雅邦さんです。東博の近代絵画室でも、かなり高い頻度で遭遇します。
そんな雅邦さんが描いたのなら、ちょっと見てみたいじゃないですか? ということで、しっかりとチェックしてきました。
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ところで寒山捨得は、中国の天台山国清寺の僧侶の弟子だったと言われている、妖精のような人たちです。ちょっと風変わりな伝説上の2人ですが、中国でも日本でも禅僧やインテリ層に愛されたようで、多くの僧、絵師や画家が題材にしています。
さて、原本の作者の「松谿」という人は、「天遊《てんゆう》」という画号だったようです。それで「作者:天遊《てんゆう》松谿」と記されています。寒山捨得は2人の名前なのに、天遊《てんゆう》松谿は1人です(たぶん)。非常に分かりにくい表記です。
天遊《てんゆう》さんは、南画(南宋画)の系統の人のようなので、与謝蕪村や池大雅なども影響を受けているのかもしれませんね。(2人とも『寒山捨得』を作品化しています)
■正倉院宝物『槃龍背八角鏡(模造)』
この実物(模造)を見て「なんか、質感が妙だなぁ」と思ったのですが、解説パネルを読んで、理由が分かりました。そこには「原宝物は銅鏡(白銅鋳造製)ですが、本品は木製の台板に鏡背の拓本を貼り付けています」と記されていました。ほかのものは、原本にかなり忠実に再現してあるのに、なぜこれだけは拓本を貼っただけで終わってしまったんでしょうね。
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模造の製作を進めたのは、東京国立博物館の創立に関わった一人、蜷川式胤です。なぜ木の板に紙を貼った模造……というか模型を作ったのか?
その理由を、宮内庁正倉院事務所の西川明彦・調査室長は、次のように推測しています。
「蜷川式胤には、正倉院宝物そっくりのものを造ろうという意識がなかった。豪華なものを造ろうという気もなかった。もちろん売る気もなかった。天平時代のものを正確に知りたい、知らしめたいという、学問的探求心だけでやっている。学者なんですね」とみる。大きさや文様、用途を確かめたかった。模造というより立体模型。「おそらく拓本も自分で採ったのではないか。鉄方響のような地味なものを模造対象に選んだのも、ただ音が知りたい、再現したい、という気持ちからではないか」
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蜷川式胤は、焼失する前の江戸城を撮影し、それをまとめた「旧江戸城写真帖」で(わたしに)知られています。そのほかにも、様々な模造を製作指示していて、トーハクでは以前に彼の模造を集めた特集を組んだことがあったようです。
関連:シリーズ「歴史を伝える」 博物館の創始者・蜷川式胤の収集資料
■正倉院宝物『墨絵弾弓(模造)』
原品は奈良時代の8世紀に作られたもの。かなり近づいて見ないとわかりませんが、弓の細い線のうえに、散楽(曲芸)の情景が墨で描かれています。
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近づいても、よくは見えないのですが、うっすらとたくさんの人が描かれています。それぞれ姿勢や表情が異なる、100人近くの曲芸師たちが描かれているそうです。
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同じ部屋には、この『墨絵弾弓』に描かれたイラストだけを、拡大模写したものがありました。その時は、ふーん…という印象しか持たなかったのですが、期間中に再度行く機会があれば、そちらの模写もじっくりと見たいと思っています。
■『華厳宗祖師絵伝 義湘絵 巻第三(模本)』
解説パネルには「新羅国の華厳宗の祖師・義湘に恋をした善妙が、龍となって追う有名な場面。義湘と元暁を描いた国宝の模本」と記されていますが……正直、馴染みのない固有名詞のオンパレードで、いまひとつピンときません(笑)
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描かれている海に飛び込んでいる女性が善妙さんでしょうね。その善妙さんを止めようとしているかのような右側の女性が元暁さんでしょうか。
その後、善妙さんは龍となって、華厳宗の祖師・義湘を追いかけるという……。義湘さんも、罪な男です。
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『華厳宗祖師絵伝』を模写したのは、山名義海さん。住吉派の絵師で、帝室につとめる技芸員だったそうです。そのため彼が模写したものが、トーハクには多く残されています。ちなみに、お父さんは東京美術学校教授などをつとめた山名貫義。
■京都・神護寺所蔵『山水屏風(模本)』
こちらも山名義海さんによる模本です。
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原品のある神護寺のWebサイトを見ると、『山水屏風』は、「真言密教の寺院において灌頂の儀式のときに用いられる屏風で、もともとは貴族の邸宅の調度品であった。それが、貴族の加持祈祷が行われるようになって、寺院用として制作されるようになった。」とされています。なぜ「山水」を描いた屏風だったんですかね。
■京都・高山寺所蔵『菩薩像(模本)』
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■京都・醍醐寺所蔵『普賢延命像(模本)』菱田春草模
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■『四季山水図のうち夏景 伝雪舟等楊筆(模本)』横山大観模
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■横山大観筆『伝平清盛坐像(写生)』
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こちらは、六波羅蜜寺の「伝・平清盛坐像」を、横山大観が“写生”したものです。横山大観は、前期でも像の写生が展示されていました。残されている模写や写生は、いずれも横山大観が20代の頃に写したものです。
わたしは美術をさっぱり解しないのですが、かなり上手なんでしょうか? それとも、後の大家とはいえ、20代だと、まだまだだったんだな…という感じだったんでしょうか?
■『舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作(模造)』
本阿弥光悦作と伝えられる、あまりにも有名な『舟橋蒔絵硯箱』の模造です。正直、この模造を見ただけだと、「え……なんでこれが国宝になったの?」と、疑問に感じました。
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解説パネルを読むと、そう感じた理由が少し分かったような気がします。
「(模造した)溝口三郎は古代中世の名品を多く模造していますが〜中略〜東京美術学校を卒業して間もない溝口が果敢に挑んでいます」
解説パネルを書いた学芸員さんも、「果敢に挑んでいます」と記したくらいなので、その出来栄えは、いまひとつだな……と感じたのかもしれません。
■『十二間星兜鉢(模造)』東京都足立区 伊興経塚出土
原品は、平安時代(11世紀)に作られ、現在最古級の星兜鉢なのだそうです。原品はトーハクが所蔵していますが、まだ本物を見たことがありません。
星兜鉢とは、鉄の板を鋲で、はぎ合わせて作った兜鉢のことです。鋲が星のように見えることから、星兜鉢と呼ばれるそうです。平安時代や鎌倉時代にはトレンドとなりますが、その最古級のものが、これなのだとか。美術的にはなんとも思いませんが、博物的にはワクワクしながら眺めました。
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■長野・清水寺所蔵『鍬形(模造)』
鍬形は、冑の正面に飾るものです。原品は、最古級の鍬形。
以前、トーハクのアイヌの部屋で、アイヌの鍬形を見た時には、「冑の前立てとは、随分と異なるような気がするんだけどな…」と感じました。でも、そのアイヌの鍬形と、この長野市の清水寺の鍬形の形は、そっくりです。
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■三の丸尚蔵館所蔵『逆沢瀉威鎧雛形(模造)』
いったい、どうやって「逆沢瀉威」を「さかおもだかおどし」と読むんだ? と思ってしまいます。瞬時に、読み方を忘れてしまいそうです。
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解説パネルには「天保13年(1842)の『御宝物図絵』に、『御鎧皇太子御幼稚ノ時御手遊』とあり、聖徳太子が幼少の頃の玩具として伝えられてきたことが知られる」と、サラッと書いてありますけど…だれが見ても「それはないでしょ」と思いますよね。
聖徳太子といえば、574年の生まれです。その頃に、こんな大鎧は存在していませんでしたよね。だって、この雛形の冑は、星兜鉢です。前述した、東京足立区で出土した『十二間星兜鉢』が、平安時代(11世紀)に作られた星兜鉢で、現在最古級と解説パネルに記されていました。なのに、それより400年も前に、星兜鉢の雛形で聖徳太子が遊んでいたなんて……ありえないと思うのですが……。御物だから、そういう疑問は挟んではいけないんでしょうか。
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■『地獄草紙(模本)』
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■三の丸尚蔵館所蔵『春日権現験記絵巻 巻第十五(模本)』
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■『孔雀明王像(模本)』
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■『細川幽斎像(模本)』
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■根津美術館所蔵『鶉図 伝李安忠筆(模本)』
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日下喜一郎さんという方が模写。日下八光の名前で知られる日本画家だそうです。
驚いたのは、日下さんは大正13年に東京美術学校を卒業し、昭和5年から12年まで、帝室博物館で模写を行なっていたということ。わたしは、帝室博物館の模写模造事業は、明治のはじめくらいに集中的に行ったものだとイメージしていました。それが、昭和になってからも続いていたとは……。ということは、かなり多くの模写模造が残されているということですね。
■『旅装束着用図(藤原時代風俗画のうち)』
原本:粉河寺縁起絵巻(和歌山・粉河寺所蔵)
こちらも昭和になってから模写された縁起絵巻です。
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