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東京国立近代美術館の常設展って贅沢ですね

数カ月ぶりに東京国立近代美術館(東近美)へ行ってきました。目的はMOMATコレクション……常設ではないけれど、いわゆる常設展……収蔵品展ですね。やっぱり自分は、近代美術といっても日本画か日本画の系譜にある絵画が好きだなぁと改めて思いました。


■透明感が良い鏑木清方(かぶらき きよかた)

トップバッターは、鏑木清方さんの《初冬の花》。東近美には、この方の作品がいくつあるんですかね。いつ行っても、必ず1点は作品を見られるのがうれしいです。

鏑木清方《初冬の花》1935 昭和10年
堀越友規子氏寄贈

作品名となっている「初冬の花」とは、解説パネルによれば山茶花サザンカのこと。どこにサザンカが描かれているの? という感じですが、表装の縁の部分に描かれています。実は、いつも解説パネルを記録として写真に撮るのですが、その場で読むことはマレです。この作品の前に立った時も、すぐに女性の姿に視線がフォーカスして、「素晴らしいな」と思いつつも、解説パネルは読みませんでした。それでも、隅から隅まで目を走らせると、「表装の縁」も「きれいだな……これも鏑木清方さんが描いたのかな?」って思ったんですよね。それで一枚だけ写真に撮っていました。解説を読んでいたら、もっとパシャパシャ撮ってきたのになぁ……。

どの作品も透明感のある女性の肌が印象的です。鏑木清方さんの作品で撮影可能なのは東近美くらいではないでしょうか。ここのは撮った作品を帰宅したからもじっくりと見られるのが良いです。

この作品は1935(昭和10)年に、日本橋にあった鶴藤家の芸者、小菊さんをモデルにして描かれてたもの。小菊さんは、古風な立ち居振る舞いでどこでも目を引く女性だったそうです。鏑木清方さんは小菊さんに明治風の装いをさせたそうです。

■横山大観さんの美しすぎる《観音》さま

鏑木清方さんの描く女性は、肌に透明感があるなぁ……なんて思いながら別の展示室へいくと、そこも日本画の部屋でした。そこで初めて見たのが、横山大観さんの作品。なんだか横山大観さんの作品は、あちこちにありますね……。最近、箱根で泊まった宿舎、皇居三の丸尚蔵館と東京国立博物館では、それぞれ異なる富士山の絵を見たばかりです。

またまた解説パネルはほとんど見ずに、きれいな女性だなぁと思いながら見たのですが、こちらも透明感のある肌艶です。横山大観さんといえば、風景画という印象があるので、「横山大観さんは、こういう女性の描き方をしていたのかぁ」と思ったのですが、描かれているのは《観音》さまでした。男性ではないけれど、女性でもありませんね。

横山大観《観音》c.1912 明治45年頃

でも、これは絶対に女性をイメージしながら描いたんじゃないかなぁ……。

観音もきれいですが、周りに描かれた緑の葉っぱも、新緑っぽい瑞々しさです。これは何の木ですかね……桂とかでしょうか ← テキトーです。

横山大観《観音》c.1912 明治45年頃

それにしても東近美は、ガラスの反射が目立つケースが多いような気がするんですけれど、気のせいでしょうか……。もしかすると展示室が狭いというか、映り込むものが近くにありがち……なのかもしれません。

■ワオ! と思った加山又造の《千羽鶴》

MoMATの展示室に入って、最初に見た作品が加山又造さんという方の《千羽鶴》でした。見た瞬間に、これは俵屋宗達の《鶴下絵和歌巻》のオマージュでしょ! と思った自分を褒めてあげたいです。こういうのが分かってくると、美術って、感じるだけではない面白さが出てきますよね。

加山又造《千羽鶴》1970(昭和45年)
加山みとり氏寄贈

解説パネルは「明らかに宗達の(鶴下絵和歌巻)(17世紀、京都国立博物館蔵)に着想を得ています」としつつ「その雄大な空間の生み出す効果は加山の独創といえるでしょう」とあります。たしかに《鶴下絵和歌巻》よりもゴージャス&ダイナミックな感じがします。まぁまず描かれている鶴の数が多いですし、左右にドーン! と描かれた日月が効いています。

加山又造《千羽鶴》1970(昭和45年)
加山又造《千羽鶴》1970(昭和45年)

本阿弥光悦筆・俵屋宗達下絵《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》(京都国立博物館)

■藤田嗣治の作品もチラホラと

東近美には、日本生まれのフランス人、藤田嗣治さんの作品がいつも架かっていますね。そのうち、1918年の《パリ風景》、1929年の《自画像》は、これまでにも見たことがありました。

藤田嗣治《パリ風景》
1918 大正7年
購入

この2点は、代表作という感じではありませんが、藤田嗣治さんがパリで売れっ子になる前と後……の作品という視点で見ると「わたしも買うんだったら後者の方がほしいな」と思ってしまいました。色調が暗すぎる作品を、部屋に飾るのはなぁ……と。

藤田嗣治《自画像》1929 昭和4年
中村緑野氏寄贈

今回、MoMATコレクションへ久しぶりにいくと、展示に工夫が見られる箇所がいくつかありました。藤田嗣治さんの《自画像》は、そのわかりやすい例ですが、作品の中に描かれている“日本画用の筆=面相筆”が、こんなものですよぉ〜という感じで作品の隣に貼り付けてありました。

ちなみに解説には、「画面に描き込まれた日本画用の筆や硯からは、西洋の伝統的な主題を参照しつつ、日本人画家としてのアイデンティティを戦略的にアピールする藤田の自負を読み取ることができます」と記されています。

藤田嗣治《薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す》1945 昭和20年
無期限貸与

1944(昭和19)年、レイテ島(フィリピン)のアメリカ軍占領下の飛行場を奪還する作戦が計画されました。派遣されたのは、当時日本統治下であった台湾の山岳民族「高砂族」の志願兵が主力の「薫空挺隊」。闇夜でも目が利き、敏感な知覚をもつ彼らは、ジャングルで戦う特殊部隊として訓練されていました。夜間でもわかるよう白いたすきをかけ、首から爆薬を下げた姿は、この作品でも印象的です。しかし空挺隊から生還者はなく、実際どのような戦いであったかについては、よくわかっていません。藤田は戦況厳しい戦争末期、報道情報をもとに想像力を働かせ、人間同士の死闘を描きました。筋骨たくましい米兵の肉体描写や、勇敢に戦う薫空挺隊の様子は、リアルとフィクションがないまぜになったドラマのように見えます。

解説パネルより

こうして解説パネルを読んで、撮ってきた作品を見ると……なんだか切ない気持ちになります。日本軍ではあるけれど、台湾の高砂族……まぁ当時は日本人ですけれどね……。対するは……解説には「米兵」とありますけど……本当に米兵でしょうか? まず、かぶっているヘルメットを調べてみると、第一次世界大戦の時に支給され始めた「ブロディ・ヘルメット」のように見えます。ただ、肌の色や背丈、体格などからして、白人というよりもフィリピンの原住民のようにも思えます。 

まぁ解説にもあるように、藤田嗣治さんが実際に戦場で見た情景ではありませんからね……なんとも言えません。

■猪熊弦一郎さんの戦争画

猪熊弦一郎《〇〇方面鉄道建設》1944 昭和19年
無期限貸与

猪熊弦一郎さんは、わたしが美術の授業以外で知った初めての画家だと思います。なぜ知ったのかと言えば、中学生だった頃の友人のお父さんが、なぜかわたしに猪熊弦一郎さんの絵がプリントされたテレフォンカードをくれたんです。その時に「有名な画家だから、後で価値が上がるよ」と言っていたのを覚えています。結局、一度も使いませんでしたが……といかどこかに行ってしまいました……残念。

テレフォンカードにプリントされていた絵は、「なんでこんな人が有名なんだろ?」と思ったものですが、こうして見ると、とても上手な方だったんですね。わたしは、猪熊弦一郎さんの評価の高い絵よりも、こうした絵の方が好きだなぁ。

■星野空外くがいさんの《春》

星野空外くがい《春》1913 大正2年

パット見て、素敵だなと思ったのが星野空外くがいさんの《春》という作品と空外くがいという名前です。

それにしても、ここも映り込みが激しい……。ガラス無しで見てみたいものです。

■津田青楓さんの《婦人と金絲雀鳥》

津田青楓《婦人と金絲雀鳥》1920 大正9年
作者寄赠

津田青楓さんは、以前、裸婦画《出雲崎の女》を見た時に強烈な印象を受けたんですよね。べつに絵の印象ではなく、その裸婦画を描いた時のエピソードが強烈で(笑)。詳細は、その時にnoteしましたので、興味があれば読んでみてください。

■長谷川利行さんの絵

長谷川利行《カフェ・パウリスタ》1928 昭和3年
購入

長谷川利行さんの絵は何点も展示されていたように記憶していますが、時間もなかったということで、目にとまった《カフェ・パウリスタ》だけ撮ってきました。

こちらの絵は、彼が1931(昭和6)年頃に滞在していた台東区谷中の下宿屋の御子息が、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に出品されたことで発見されたそうです。同番組での鑑定額は1,800万円。その後の2009年度に、東近美が(いくらでかは調べていないので分かりませんが)購入して所蔵したのだとか。

上の保坂健二朗『長谷川利行作《カフェ・パウリスタ》の調査報告』にも、下の三重県立美術館のサイトにも、この「カフェ・パウリスタ」というカフェで、長谷川利行が絵を描いた時の様子が記されていました。描いていた絵が、この作品だったのかは不明。書いたのは、親交のあった矢野文夫さんという方です。

「初対面の利行はすでに三十近い年齢で、陰気で口数も少なく、東海道五十三次を、テント旅行でスケッチして歩いた、などと話した。一緒に、駿河台下の『カフェ・パウリスタ』でコーヒーを飲んだのであるが、利行は一隅に十五号位のカンバスを画架に立てかけ、一瀉千里の勢いでカフェの内部を描いた。それは、嵐のような烈しい筆勢であった。その時は、三原色だけでなく、ガランスやエメラルドやブラックをふんだんに使用していたように思う。…その時、あした京都に帰るといっていたので、東京に定住していたわけではないらしい」。

矢野文夫『長谷川利行』

はだテルヲさんの《京洛追想画譜》

はだテルヲ《京洛追想画譜》c.1939 昭和14年頃
購入

祇園の夜桜や嵐山の筏流し、高瀬川の曳舟、四条河原の夕涼みなど、京都の名所、風物が画帖の表裏の見開き13面に描かれています。京都で若き日を過ごし、上京して、また京都に戻った作者は、本作を手掛けた頃、闘病生活を送っていました。自筆の序文にはこうあります。
「常無きは世の相なれと愛着断ち難く吾か幼き頃此の京を追想してせめてもの心をなくさむ方一里の都なりし日は実に山紫に水明なりし静に想を過去に寄す 幼き日の夢は美し」。

解説パネルより


■小村雪岱《邦枝完二著「江戸役者」挿絵》

邦枝完二の文、小村雪岱の挿絵による連載小説「江戸役者」は、1932年9月20日から12月28日まで「東京日日新聞」と『大阪毎日新聞』のタ刊に掲載されました。この画帖には、連載のために描かれた挿絵原画全70図が、1図も欠けることなく貼り込まれています。物語の主人公は江戸随一の人気者、八代目市川団十郎。肥のないシャープな描線、白黒のコントラストが明快な画面処理、俯職の構図など、いわゆる「雪調」が全開です。この二人のコンビが名を上げた連載「おせん」が世に出たのは本作の1年後でした。

解説パネルより

今回も大充実のMoMAT展でした。今週から『TRIO展』も始まったので、足を運ぶ人も多いことでしょう。その際は、MoMAT展に多くの時間が取れるようにスケジューリングすることをおすすめしたいです。

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