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地面師?だったSさんのこと


配信で「地面師たち」という連続ドラマを見た。途中で飽きてしまったが、一応最終回まで見た。

JRの山手線に高輪ゲートウェイ駅が新設されること契機に、その近くの土地を巡って、120億円を詐欺するハナシだった。

地面師のリーダー役を豊川悦司が演じていて、彼は殺人もいとわない美意識過剰な犯罪者として描かれていた。映画によく出てくる猟奇的な人物造形に、なんとなく鼻白んでしまった。シリアルキラーならともかく、詐欺師には見えなかった。

高輪ゲートウェイ駅ができたのが2020年だから、このドラマの物語設定は、その少し前になるのだろう。2010年代の後半といえば、世の中はすっかり防犯カメラだらけになっていたと思う。

ところが、このドラマの登場人物たちは、防犯カメラなどないかのように、まるでかつてのVシネマのヤクザか、ビバリーヒルズ・コップの登場人物たちのように、おおっぴらに犯行を重ねるのだった。痕跡残しまくりで、おそらく映像も取られまくりだ。

派手な画面が連続するが、意味のない無駄なリスクにしか見えない。こんな雑な犯行、すぐに捕まるに決まっている。全然、リアリティーを感じなかった。

池田エライザ扮する女性刑事も、大型バイクに乗って単独行動をするのが基本のようだし、個人的に発信機を取り付けて捜査したりと、現実的な存在には見えなかった。若く美人な女性がいるといいからという利用で、作られた役のように感じた。


現実の地面師が、どんな感じの人達なのかは、私にはわからないが、昔、焼き鳥屋をやっている時に、元地面師だというSさんがいて、色々と自慢話を聞かせてくれた。私が焼き鳥屋をやっていたのは、1980年代の末から、2007年くらいまでだから、Sさんからハナシを聞いたのは、その間の何年かだ。

開店当初からの常連さんに、Mさんというタクシードライバーがいた。Mさんは、当時既に80代で、所属するタクシー会社では最高齢のドライバーだった。台湾人で、事業に失敗して、タクシーの運転手になった人だ。都内にいくつか家庭をもっていて、台湾に本妻がいた。そのMさんが連れてきた同僚が、Nさんだ。

Nさんは×2の独身で、当時すでに年金をもらいながら、タクシー・ドライバーをしていた。そのうちにMさんは引退して、台湾に帰ってしまった。Mさんの代わりではないが、Nさんが新しく連れてきた同僚が、Sさんだった。
Nさんも、Mさんも、Sさんに劣らず謎の多いユニークな人達だったが、今回は端折る。

Sさんは、当時、70代後半でタクシーの運転手をしていた。そこのタクシー会社には、なぜか年配の、そして訳ありドライバーが多かった。

Sさんは、あまりお酒を飲めない人だった。店に来たときは、飲んでもウーロンハイ1杯か、普段はウーロン茶だった。アルコールを飲まないから、大抵、大型スクーターを乗り付けて、来店した。以前はハーレーに乗っていたというが、その頃は、600CCとかの、真っ黒の大型スクーターに乗っていた。

髪の毛は長く真っ白で、両耳と後ろは刈り上げて、いつもオールバックにしていた。目は大きくきりりとしていて、なんとなく戦前の文士みたいな風貌だった。

Nさんによると、Sさんは、そこのタクシー会社で、毎月、トップの売り上げを誇っていたという。2位とダントツの開きがあるので、不思議だといつも言っていた。

Sさんが一人で来店した時に、何か方法があるのですかと、極意を尋ねたら、「簡単なやり方があるんだよ、言わないけどね。他の連中は度胸がないから、やらねーんだよ」と笑って答えた。私は、何か狡い手を使っているのかなと思った。

Sさんは、スクーターに乗っているせいか、ジイさんのくせに、革ジャンベースのファッションをしていて、首にはいつも絹のスカーフを巻いていた。私はなんにも知らなかったが、女性客たちは、ブランド名をあげて、そのスカーフをくれとSさんが来るたびにせびっていた。

Sさんは、腕時計も舶来モノの高級品をしていた。常連の一人で時計のシチズンに勤めていたYさんが「こんなところでその時計を見るとは!」と驚いていた。なんかブランド名を言っていたが、聞いたことのない名前だった。ロレックスではなかった。Sさんは、「昔、稼いでいた時に買ったんだよ」と、やっぱり笑って言った。

昔、稼いでいた時の仕事が、地面師だった。だったと書いたが、本人がそう言っただけで、本当かどうかはわからない。

Sさんは、謎めいたというか、かなり胡散臭い人だった。見た目も、普通の人には見えなかった。ヤクザでもないが、芸能人みたいな独特の雰囲気があった。

Sさんは、普段は、べらんめえ調の江戸弁で話していたから、東京の下町出身だとばっかり思っていた。ところがある時、他の客と口論になって、興奮したSさんが、関西弁で相手を罵倒しだした。

次に来店したときに問い詰めたら、Sさんは、だましたわけではないが、実は関西出身なんだと言い出したのだった。その時に、Sさんの生い立ちなんかを聞いた。

「俺は色町出身なんだよ」とSさんは言った。母親が待合茶屋だか置屋なんだか、そのような店を経営しており、Sさんは着物を着たお姉さんたちに囲まれて育ったのだそうだ。姉が二人と弟がいて、四人キョウーダイだったが、全員父親が違った、と言う。

二人の姉は、十代になると芸妓になった。後に一人は、画家の横山大観の愛人になったんだそうだ。いきなり大物の名前が出てきたので、私は話半分どころか、Sさんのハナシは、全部、嘘なんじゃないかと思って聞くようになった。

絵が好きだった弟さんは、姉のコネで、横山大観に弟子入りして、日本画家になったのだと言う。弟さんの名前をメモって、あとで調べたら、本当にそういう名前の日本画家がいた。確かに日本美術院系の画家だったが、その人が、横山大観の弟子なのか、はたまたSさんの本当の弟なのかは、確認できなかった。Sさんと弟さんとでは、苗字が違っていた。

Sさんは昭和4年生まれだ。「村田英雄とかフランキー堺と同い年だよ」とよく言っていた。戦争中は関西で過ごしていた。食うもんがないから、庭で芋づくりとか、ジミチにやっていたという。

戦後になってSさんは、母のパトロンの援助を受けて、東京の某有名私立大学に入学した。法学部だ。

パトロンは関西の経済界の人というか実業家で、「戦争でしこたま儲けやがったんだ。狡いヤツってのは、どんな時代でも儲けるんだよ」とSさんは、その実業家が本当にすごい人だった、みたいな感じで言った。

卒業後は、関西に戻って、やっぱりパトロンの口利きで、法律事務所に就職したのだそうだ。そこには、不動産売買やら登記にまつわるトラブルを専門とする部門があって、Sさんは、それに興味を持ったんそうだ。

土地にまつわるトラブルは、法律に関する知識があれば、ちゃんと解決もできるが、いくらでも操作できるし、法律には抜け道もいっぱいあるし、手続きにも穴がいくらでもあって、その隙間をかいくぐれば、いくらでも稼げるなと思ったのだそうだ。

「やりようによっちゃ、馬鹿みたいに儲かるんだ。もう、夢がひろがっっちゃってさ、妄想だけで、天下をとったような気持ちになったよ」と言う。

それからは、真剣に仕事に打ち込んだと言う。「どこをどうやったら、最大の儲けが出るのか、って、本気になって頭を使った」と言う。

仕事をあらかた憶えた頃に、母のパトロンの実業家が亡くなり、しがらみからも解放されたんだと言う。Sさんは、一旗あげるために、また東京にやってきたのだそうだ。まだ27、8歳だったから、なんでも出来る気がしていたと言う。類は友を呼ぶで、その頃には、東京にもワルイ仲間のつてが出来て、儲けようとハナシ合っていたのだそうだ。

Sさんのお母さんが、その後、どうなったのかは、聞きそびれた。

戦争で焼け野原になってから、まだ10年位だったから、当時の東京には、所有者のはっきりしない土地がいくらでも転がっていたのだと言う。毎日、自転車に乗って、東京中を巡って、めぼしい土地を見つけたら、今度は登記簿とにらめっこしたんだそうだ。当時は申請すればだれでも登記簿を見ることが出来たから、本当にいい時代だったと言った。

2坪でも3坪でも、曖昧な土地があったら、そこに掘っ建て小屋を建てて、人を住まわせて所有権を主張したり、勝手にゴミ置き場にしたりしたんだそうだ。

「登記簿も、手書きだからさ、偽造だって簡単だし、結構、いい加減な根拠を並べるだけで、書き換え申請が通ったんだ」って懐かしそうにSさんは言った。

そういう曖昧な土地は、人の家の横にある三角地だったり、家と家の隙間の幅一間もない細長い土地だったりしたと言う。「ほんとに何の役にも立たない土地。でもそこがねらい目なんだ。こっちは何も失うものがないから、ごねるだけごねるんだ」と笑う。結局、困った住人がいいなりで土地を買ってくれたんだそうだ。

「あんまり弱い者いじめしても気分が良くないし、儲けも少ないから、みんなが喜ぶようなこともずいぶんやったよ」とSさんは言った。

渋谷川とか神田川のような、街中を流れる細い川沿いのどん詰まりで、そのままではなんの役にたたない土地を見つけては、業者を使って勝手に橋をかけて、自動車が通れるようにしたんだ。そうすると土地が使えるようになる。そこを、やっぱり勝手に駐車場にしたり、アパートを建てたりして、土地の価値を高めてから、転売したり、本来の地主に買い戻させたりしたんだそうだ。

「地主は、多額のお金を払っても、その後は家賃収入が入るから、損はしねーんだ。最初っから店子がいるんだぜ。俺が儲かる仕組みを作ってやったんだ。みんな喜んだよ」なんてSさんが嘯いていた。

Sさんが言っていることが本当なのか、何も確かめようがなかったが、お客さんが気持ちよく話しているんだからと、私もあまり疑問を挟むことはしなかった。

昔は、偽造も簡単だったと言う。「書類も図面の手書きだし、写しといっても、今みたいにコピー機もなかったし、カーボン使ってなぞっただけだったから、いくらでも加工ができたんだよ。ちょっと金を払うとやってくれる巧いやつがいたんだよ。役人だって、袖の下かがせれば、融通が利いたし、なにもかもがおおらかだったよ」と楽しそうにSさんは語った。

Sさんが最後にやった大仕事は、〇〇谷にあった500坪の元武家屋敷だそうだ。誰も住んでいなかったから、居住の既成事実を作るために勝手に住み込んだんだそうだ。

「住むっていたって、仮住まいじゃないよ。本当に住むんだ。家族と一緒に3年は住んだかな。その土地はさ、一等地だったから、ヤクザも狙っているから、庭には番犬を4匹、放し飼い。ドーベルマンだよ。俺、犬は苦手だったんだけど、その時で慣れたな。仕事だしな。まあ、でも散歩なんかは、若いもんにやらせたし」。

最終的にその土地は、結構な値段で、某企業に売ることが出来た、と自慢げに語ってくれた。後で地図を見たら、本当にその土地は某企業の集配拠点になっていた。でも、そこの土地にSさんが本当に関わっていたのかは、確かめようがなかった。

ちなみに現在、そこの土地を調べたら、大きなビルが建っていた。某会社の集配拠点を探してみたら、メガ在庫物流センターというのが、埼玉や神奈川に出来ていた。

「バブルとかで地上げが始まった頃に、俺は手を引いたんだ」とSさんは語った。「あれはもう、完全にヤクザが仕切る世界。大手建設会社も不動産会社も、ヤクザと手を組んでやりだしたからさ、俺らみたいな真面目な地面師の時代はおわっちゃったのさ。ま、十分稼いだし」と言った。


しばらくしてSさんは交通事故に遭った。スクーターで走行中、停車中のトラックの横を追い越したら、運転席のドアが開いて、そこに激突したのだ。

常連のみんなとお見舞いにゆくと、枕元に和服を着たお化粧の厚い小柄なお婆さんがいた。Sさんが女房だと紹介してくれた。Sさんは、離婚して一人暮らしだと聞いていたから、意外だった。

長居しづらい感じだったので、早々に帰ろうとしたら、今度は、短髪の男が入って来た。私と同年配だった。Sさんが息子だと紹介してくれた。板前をしていて、そこにいた和服の母親と一緒に店をやっているのだそうだ。

その時、お店の名刺をもらった。私は行かなかったが、後日、一緒にお見舞いに行った中の二人が、そこへ飲みにいった。私の焼き鳥屋の5倍ほどの客単価の高級店だったそうだ。

退院後、Sさんの奥さんが菓子折りを持って、焼き鳥屋にあいさつに来た。やっぱり和服でお化粧が濃かった。如才がなかったけど、入って来るなり、店を値踏みするようにぐるりと見渡したのを憶えている。やなババアだなと、私は思った。

Nさんのハナシでは、Sさんは、別居していた家族のもとに帰ったってハナシだった。タクシー会社も辞めたと言う。地面師をやめたあとどうしたのか、なんでタクシーの運転手になったのか、等、聞きたいことは山ほどあったが、Sさんはそれっきり店には来なくなった。


Sさんは地面師だったのだろうか? 地面師というより、Sさんがやっていたことは、土地に絡んだ、言いがかりや強請りやたかりの類のようにも思える。

ドラマの「地面師たち」を見て、Sさんのことを思い出していたら、最後にもう一回、Sさんに偶然会っていたことを思い出した。焼き鳥屋を廃業して何年か経ってからのことだ。

その日は日曜日で、私は何か用事があって、その街を歩いていた。確か誰かと待ち合わせかなんかだ。大きな教会の前を通った時だ。黒服の人達が、教会からぞろぞろと出てきた。

その中に、一人、黒服じゃない老人がいた。よぼよぼだったけど、一般人の中に堺正章が混じっているような感じで、ひときわ目立っていた。Sさんだった。

日曜礼拝かと思ったら、弟さんのお葬式だった。「ここの近所に、あいつのアトリエ兼住居があるんだよ。あの野郎、勝手にクリスチャンなんかになってやがってさ。だから罰が当たって、俺より先にいきやがったんだよ」とSさんは相変わらずだった。

「冴えないやつだったけど、一応、名の通った画家だったからさ、それなりに財産があるんだよ。遺産相続とか、これからが見ものだよ。ぞくぞくするねェ」と言うSさんは、いきいきとして見えた。その日も首にスカーフを巻いて、胸のボタンホールには、献花なのか、生花を一輪さしていた。なんの花だったかは憶えていない。Sさんが今でも生きていれば、今年95歳だ。

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