【考察】ブルアカのテーマはキャッチコピーに込められている話
さて、「何気ない日常で、ほんの少しの奇跡を見つける物語」でおなじみの神ゲー、ブルーアーカイブ。
このキャッチコピーについて深掘りというか、僕なりにちょっと考えてみようと思います。
カルバノグの兎編にて大活躍?だった萌えキャラ、不知火カヤ。彼女が繰り返し言っていた言葉、「超人」
超人って聞くと何でもできる人のことを形容するときに使う完璧超人の方を思い浮かべちゃう気もするが、おそらく僕らが連想すべきはニーチェの方。
ブルアカでこういうワードが出てきたら結構注意して取り扱いたい。
カヤは連邦生徒会長のことを「超人」と言ってたが、連邦生徒会長はブルアカの中でも最重要人物と言っても過言ではなく、さらには物語の秘密につながる存在。
連邦生徒会長=「超人」
であり、
連邦生徒会長の失踪から物語が始まるとするなら、
謎多きブルアカの世界観にはニーチェ的な成分が含まれていると考えるべきだろう。
結論として、ブルアカのキャッチコピー「何気ない日常で、ほんの少しの奇跡を見つける物語」の意味は
「永劫回帰の中で奇跡を見つけ、ニヒリズムを克服する」だと思う。
まず永劫回帰とは何か。
ウィキペディアによると
「この世界は、全てのものが、まったく同じように永遠にくり返されるとする考え方」
だそうだ。
ニーチェは永劫回帰を究極のニヒリズムとしているわけだが
世界が永遠に繰り返されることがニヒリズムの究極というのはいまいちピンとこない。
これには前提としてキリスト教的世界観が関係している。
ミサキやヒヨリも言っているが人生は苦しいものだ。
人は自然に、この苦しみに意味を求める。
キリスト教的世界観では
世界は神が創造した。故に世界の進んだ先、その彼岸には確固たる目的があるはずだ。この世には終わりがあってそこに向かっているんだ。
みたいな答えを用意しているわけだが
「この世界は、全てのものが、まったく同じように永遠にくり返されるとする考え方」の永劫回帰はこれを否定する。
世界は目的のない、「無」が繰り返されるだけだというわけだ。
苦しくて、目的も、救いもないとなればそれは虚しいことだろう。
エデン条約編では、アリウス分校のニヒリズムとそれを乗り越えようとするアズサの「たとえ全てが虚しいことだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない」という信念が物語を通じたメッセージだった。
しかし、この永劫回帰のなかでは全てが永遠に繰り返される以上、アズサの「今日を精一杯生きる」という信念では立ち向かえない。
生が一回限りの有限のものならばアズサのような考えにも意欲がわくが、永劫回帰の中ではくじけてしまうだろう。
では、ニーチェは永劫回帰思想で僕らをニヒリズムに陥らせようとしているのか。
いや、そうではない。
ニーチェの永劫回帰思想の主張は「現実肯定」だ。
永遠に繰り返す中の人生を1セットとしたときに、その人生の中で幸福な一瞬があったのならば、それはその人生を愛したということ。
その一瞬が永遠であれ、と願ったのならば、それはすなわちその人生が永遠に繰り返されることも肯定できる。
キリスト教的な神の意志だったり、世界の彼岸だったり、真の世界だったり、
そういった外部のものに価値を置くのではなく、自分の人生それ自体を奇跡として肯定する。
こういった姿勢によってニヒリズムは克服され、「超人」に至るというわけだ。
「何気ない日常で、ほんの少しの奇跡を見つける物語」
人生の中で、永遠に続いてほしいと思えるような、輝かしい奇跡のような一瞬を見つけられたとき、ニヒリズムを克服できたと言えるのだろう。
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