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わたしを怒らせているのは、わたし自身かもしれない

会社で女性の同僚と他愛のない世間話をしていたら、突然、怒りを向けられたことがある。たしか、その当時ハマっていた料理のレシピの話をしていたときだ。

わたしは料理がわりと好きで、こまめにつくるほうだと思う。そんなに手の込んだものはつくらないが、家に友人を10人ぐらい招き、ホームパーティをして家庭料理をふるまったりもする。だから、何の気なしに発した言葉だった。

「まあ、料理は趣味みたいなもんだから」

そこに彼女が反応した。みるみる間に怒りの表情を浮かべ、毒々しい声でこう言ったのだ。

「わたしは、趣味でなんか料理はつくらない

彼女にはその当時、小学校低学年のやんちゃな息子がふたりいた。テレビに映るものに興奮した息子たちに、立てつづけに2度もテレビを壊されたという話はおもしろかった。3台目を購入するのを躊躇して、家族4人でエグザイル状態になりながら小さなタブレットでテレビを観ていると言うのだ。涙が出るほど笑ったが、彼女は仕事でリーダーを任されている人でもあったので、「仕事とやんちゃ坊主たちのお世話の両立は大変だろうなあ」と思ったのも覚えている。

彼女が今怒っているのは、わたしに対してではない、と思った。仕事と家事や育児で余裕のない自分の環境に怒っているんだな、と。

「そりゃそうだ、家族がいたら趣味でなんか料理はつくれない。わたしみたいなひとり暮らしの人間とはわけが違う」

そう返答すると、彼女はすごくバツの悪い顔をした。たぶん、自分でもやつあたりだという自覚があったのだろう。わたしは、そんな顔をさせたかったわけではなかったので、何と言えばよかったんだろう?とたまに思い出す。まだ正解は見つかっていない。

SNSなどでもよく見かける、ある発言に対して、曲解をして怒りを表現する人々。たぶん、その人々は心のなかに怒りを抱えているのだ。それは、不甲斐ない自分、ままならない環境、パートナーとのうまくいかない関係など、何かしら抱えていた怒りがひとつの言葉から刺激され、言葉の発信者への攻撃に変わる。理不尽な怒りをぶつけられるとムッとする。怒りには怒りで対抗したくなるけれど、それは何も生まない。だから、そういうときはするりと流してしまうのが一番だと思っている。

と言いつつ、わたしも理不尽な怒りを他人にぶつけてしまうことがある。愚痴の多いフリーランスの友人がいる。ギャラが安い、クライアントの態度が横柄だ、仕事が少なくて先行きが不安だ、ほかのフリーの友だちはもっといい仕事をやっているのに……云々。愚痴モードにはいると、延々とつづく。聞いているだけで気が滅入る。愚痴を言うのはいいのだ。それで気分が晴れることだってあるから。ただ、愚痴を言うだけで改善策を考えない、そのあまりに受け身な態度にイライラする。もっと営業してみれば? SNSだってあるんだし自分から発信してみれば? いろんなアドバイスをしてみるが、すべて否定される。まあね、アドバイスが聞きたいんじゃないんだよね、ただ愚痴に共感してもらったり、なぐさめてほしいだけなんだよね。しかし、だ。

「うぜえんだよ、黙れよ、愚痴言ってるひまがあるなら行動しろよ!!!」

声には出さないが、そのときわたしの心は怒りが頂点に達して吠えている。でも冷静に考えてみれば、何を怒る必要がある? その友人が愚痴ばかりで何も行動しなかったとしても、わたしには関係のない話だ。そうだよね、大変だよね、と流してしまえばいいのだ。だって、わたしには、その友人の人生をどうにかしてあげられる力もないし、権利もない。それはわかっているつもりなのだけど、どうにもこうにも腹がたつ。

たぶん、わたしはそのときわたし自身に怒っているのだ。友人と同じくフリーランスとして不安を抱え、そのくせ行動に移せていない自分に腹をたてている。友人を通して自分を見ているのだ。だから、無性に怒りを覚えるときは、「わたしは本当は何に怒っているのだろう?」と考える。そうすると、怒りが収まっていくのだ。そして、わたしがやるべき行動が見えてくる。怒りを覚えたときは、自分自身の問題を解決するチャンスでもある。

以前、心理カウンセラーの方が書かれた「怒りの底には悲しみがある」という記事を読んだことがある。それはうまくいかない夫婦関係について書かれたものだったのだが、夫婦の諍いの間には互いに「なぜ自分のことをわかってくれないのだろう?」という悲しみがあると。

わたしの怒りの底にも悲しみがあるのだろう。「どうして人生がうまくいかないんだろう? 一生懸命生きているのになあ」という悲しみが。そう思うと、自分で自分を、よしよし、としてあげたくなる。そうだね、悲しいね、と共感してあげるだけで、自分自身が癒されていくのを感じる。

怒り、そしてその底にある悲しみ。それを見つめることは自分自身を見つめることだ。自分自身を見つめる作業はつらさも伴う。だめな自分を自覚したり、ままならない人生を憂う作業であったりするから。だけど、自分自身を見つめた先に、必ず光が見える、とわたしは思っている。その光に向かって歩き出すのは自分だ。誰かが手を引いて連れてってくれるわけではない。

だから、今日もまた、昨日より半歩だけでも先に進んでいきたい。どんなにその歩みが遅くとも、きっとわたしはあの光の方向に向かっているのだと信じているから。



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