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街灯に照らされる声

録画していたドラマの最終回は、期待に反してまったくつまらなかった。毎週、楽しみに観ていたのに最後がこれか、と。もう物語の展開はだいたい見えて、あとは予定調和に収まっていくばかり、という段階で、わたしの意識はアパートの外に向いていた。

ドラマを見始めるまえ、外で男の声が聞こえていた。二人? 三人か? 何を話しているかは聞きとれないが、ケンカをしているような激しい口調だったり、酔っ払ってご機嫌なときの口調だったり。その会話がポジティブなものなのか、ネガティブなものなのかは測りかねるが、20時の住宅街では非常識と言わざるをえない大声ではあった。

ドラマに没頭したからであろう、すぐに声は気にならなくなった。そして、ドラマへの興味が薄れると同時に、また再び外の声に意識が飛んだのだ。

やはり、何を話しているかは聞きとれない。確かめたいという欲求がむくむくとわいてきた。怖さもあるが、野次馬根性のほうが勝つ。わが家はアパートの3階なので、もし相手にわたしの姿を見られてもすぐに手出しができるワケではない。ドラマを一時停止した。念のため、わたしの姿が見えないように電気を消す。鍵を開け、そっとベランダに出ると、アパートの前の細い路地に一人の男がいた。

一目見て「あぁ」と思う。形容しがたい感情——、罪悪感と優越感と自己嫌悪が乱暴に混ざり合う。その中心を占めるのは、切なさ、だ。

ほこりまみれのすり切れた洋服を幾重にも重ね、汚らしく伸びきった髪やヒゲを振り乱しながら、男は路地を行ったり来たりしていた。この3階のベランダまで、あの独特のすえた匂いが漂ってくるような気がした。

ベランダに出ても、男が何を言っているかはわからなかった。2〜3人の会話に聞こえていたのは、男の声のトーンが頻繁に変わるからだ。激しく怒鳴ったかと思えば、歌うように高らかな声を出す。大げさな身振り手振りとあいまって、まるで一人芝居を見ているようだ。狂気をおびた一人芝居は、赤い街灯をスポットライトに延々と続く。

わたしは、男が怖いと思ったし、憐れだと思った。近寄りたくなかったけど、男に救いがあればいいと思った。わたしと男の住む世界は違うレイヤーだと感じながら、わたしが男の住むレイヤーにシフトする未来を想像して怯えた。

わたしはそのとき安全な場所にいることを知っていた。男はわたしに気づいてもいないし、わたしのいる場所に来る術は持っていなかったから。安全な場所にいることは、その言葉通りの安心感を生み、同時に自分への強烈な嫌悪も生み出す。

わたしは無力だ。あの救いのない男に差し伸べられるものは持っていない。いや、そもそも男は救いなど求めていないかもしれない。だけど、もしわたしに差し出せるものがあれば差し出したいという衝動にかられる。

おや? 関わりたくないのにね。傲慢なものだ。

ベランダから部屋に戻り、電気をつけた。カーテンの向こうで男はなおも一人芝居を続けている。ドラマの再生ボタンを押す。音量を大きく、外の声がかき消されるぐらいに。

期待外れの最終回は、ときおり聞こえる男の一人芝居とからまり合いながら、エンディングに向かって進んでいく。冴え冴えとして後味の悪い夜が更けていく。

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