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100日後に死んだワニさんを悼みながら思うこと

Twitter上で非常に大きな話題を集めた、『100日後に死ぬワニ』がついに完結しましたね。

お話はポツポツと読んでいましたが、とても綺麗なお話だと思いました。
最後の桜はとても素敵な一枚絵だったと思います。

ただ、その後の展開にあまりにも違和感があるので、気持ちがとても、もにょもにょしています。

もにょもにょしている気持ちの原因は、ずばり、ワニさんのメディア展開や、グッズ販売の報が立て続けに出回っているニュースです。

これだけ評判を集めたコンテンツなのだから、そうなるのも頷けます。

もともとそういう経緯のもとでの投稿だったのでしょうね。

ただ、この100日目を迎えるやいなやの超展開には、ちょっと待ったをかけさせて欲しいんです。

はっきり言いますね。

結局ワニさんを公表していたあなたたちは、ワニさんの死をおもちゃにしていたんですか?

と。

ここまで素敵な作品だったのですから、もっと読者の一人一人が解釈を語り合ったり、感想を述べ伝えたり、作者にお礼を伝えたりする時間がもっとたっぷりあってもいいじゃないですか。

実際、解釈や感想ツイートが、最終話投稿直後から、様々飛び交っていますよね。

その読者間の素敵な言葉のやりとりに、水を差すかのような露骨なメディア展開の報に、気持ちの切り替えがつく読者が一体何人いるでしょうか。

さながら、ワニさんのお葬式をきちんと済ませて喪に服する前に、ワニさんの遺産相続の話を始めてしまったかのようですが、本当にそれで良かったのですか?

創作物のキャラクターとはいえ、「死」に対する見識について、個人的に大きな疑念を抱いています。

なぜなら、作品に入れ込んだ読者は途中から作品と一体化するからです。

一体化の仕方は人それぞれあります。

登場人物の誰かになっているのかもしれません。
感情移入しているのかもしれません。
もしくは、作品の中に自分がいるかのように読んでいるのかもしれません。

そして、100日経った運命の日。
読者は一人の友達を喪います。

永遠に。

その日を迎える頃には、読者の現実と作品の境目は既に無くなっています。
もはや読者は作品に組み込まれ、大切な一部を担っているも同然なのですから。

しかし、そこに、元々そういう話だったのかもしれませんが。

ワニさんを仕掛けていた関係者が、露骨なメディア化の発表や、大々的にグッズを販売し始める現実的な姿勢。

それはさながら、今まで一体だった読者と作品を切り離すかのような所業に思え、私は大きな違和感を覚えました。

まるで、亡くなったワニさんのお葬式の前に、遺産でやりたい放題し始めているのと同様の仕打ちをしているようだと。

小説や漫画の登場人物の「死」の捉え方については、また別途真剣に考えてみたいと思います。

だから読者の皆さん。

まずはワニさんのご冥福をお祈りし、その死をきちんと悼みましょう。

まだまだその段階なのですから。

2020/3/27(追記)

色々とこの件についての情報が増えてきましたね。

まず、この本文中で

予めグッズ販売やメディア化目的でコンテンツを始めたという視点で書いたことについて、お詫びして訂正いたします。

作者のきくちさんご本人のツイートや、徳力さんが記事にまとめられた通り一人で始められたところから始まり、奇跡的な経緯を踏んだ案件だったのですね。

その点について、メディア化前提で話を始めたと決めつけた記事を書いた自分の軽率さを反省しております。

さて。

徳力さんの記事では、批判的なグループを5つに分けられており、自分はその中では5に分類されました。

■5.純粋にコンテンツを楽しんでいたのに騙されたと感じたファンの人た

当然ながら今回の炎上が大きなものになってしまったのは、陰謀論やステマ疑惑のデマだけでなく、最終的に200万人を超える数で膨らんだワニのコンテンツをフォローして毎日読んでいたファンの人達も、多かれ少なかれ「騙された」とか「裏切られた」と感じる結果になってしまった点でしょう。

何と言っても、もっとも「死」というテーマの作品の余韻を噛みしめたいタイミングで、宣伝の連投をされるというのはファンにとっては裏切りに見えても仕方ない行為でした。

このグループの方々の中には、きくちさんのライブ中継や投稿を見て納得されている方も多くいると思いますが、1~4(注)のグループの批判を見るにつけ、肩身が狭い思いをされている方も少なくないはずです。


1. 電通案件というキーワードに反応したアンチ電通な人たち
2. 嫌儲と呼ばれるような広告、宣伝行為が嫌いな人たち
3. 「100日後に死ぬワニ」のような企画を斜めに見ていた人たち
4. 企画や編集、広告やPRのプロの人たち

引用:100日後に死ぬワニの「奇跡」から、あらためて考えるべき平凡な1日の重み

今読み返すと、もともと「死」を連想する作品や創作に触れてきた経験から、特に死の余韻を重視したい読者だったもので、その点を踏みにじるかのようなプロモーションにかなりムッとしていた感情が始めに来ていますね。

自分もどうすればよかったかを考えたのですが、

・初七日と四十九日のタイミングでもう2本投稿してから、メディア化を小出しにする。

と、現代のお葬式後の作法をTwitter上でも実施していれば…

などと考えましたが、それでは100日後に死ぬワニではなくなりますね。

ただメディア化展開が勇み足でやってしまった…とするのは実にもったいない作品でした。

あの時になにが惜しかったって、

100日目の美しい桜を見て

素晴らしくきれいな絵だなぁ

としみじみ感じ入った気持ちに、二度と帰れなくなったところなんですよね。

良い作品を見たあとの余韻とは、あの桜の絵を見た瞬間に一度だけしか味わえない感情の延長線です。

細い糸や淡い色を、たぐりあわせ、塗っていって、ようやく完成した作品をしばらく眺める時間のことです。

私はその時間が欲しかった。

結果としていろいろな不運や勇み足が重なって、自分のあの桜の絵のカンバスに、どす黒い絵の具をぶちまけられちゃった気持ちになったんですね。

それで色々台無しにされたと思い、種々の批判的な意見に首を傾げたり、まさにそのとおりだと思ったりした末に、もにょもにょして先のnoteを書いた次第なんですが。

感情の余韻の取り扱いについて、自身を振り返る良いきっかけになりました。

参加される皆さんの好きを表現し、解き放つ、「プレゼンサークル」を主宰しています! https://note.com/hakkeyoi1600/circle ご興味のある方はお気軽にどうぞ!