家族はどこまでが家族なのか? 映画「万引き家族」感想

この記事はネタバレが含まれます。映画を楽しく見たい方は読まない方がよいかもしれないです。

本当の家族とは。
なにをもって家族なのか、血のつながりなのか、公的な書面なのか、お互いを思う気持ちなのか。
「お互いを思う気持ちがあればそれは家族なのだ。」
そんな答えを観客は持つだろう、ということを見透かしてか、この作品はもう1歩踏み込んで、自分を愛する気持ち、身勝手さ、から、相手を家族扱いするエゴも同時に描いている。

相手を思うことと自分が気持ちいいからする、という気持ちは矛盾しないのに、本当の家族じゃないから、どちらかであるべき、と選択を迫られる。

小さく、ささやかに、家族でありたいと思っていた家族たちは、
あやういバランスの上になりたっている。
〇法律
〇1番目の家族をうらやむ気持ち
〇成長によって自分を見つめる目が育っていくこと

ずっとこれが続くとは思っていないが、それを打破する力もなく、
そっとその時を待っている。


家族らしく家族とは言えないギリギリ家族となった人々に、
家族らしい面とそうではない面をまだらに見せられる。
それは家族がなんなのかを問いかける。

離れてはつながって、本当にささやかに、細く、はかない関係。
だからこそ、強い感情がそこにあって、それに私は揺さぶられた。

このかりそめの家族は、2番目の家族であることをよく理解している。
1番目は、愛し合った本当の夫婦、血のつながった親子、の関係。
登場人物たちは、そのマジョリティとなる関係からこぼれて、こぼれたから、とてもあこがれている。
その燦然と輝くメジャーな家族を理想に置きながら、仕方なく身を寄せ合っている。だからはかないのだ。
1番を夢見ている罪悪感を胸に秘めながら、でもそこにいる2番目の家族も確かに好きなのに、好きと言ってはいけないような、言ったら崩れてしまうような、ささやかな家族。

ガッツリと愛、という形ではなく、消えそうな愛、
だからこそ、大事にしたい、風がきたら手で覆って防ぎたくなるような
そんな愛の形だった。


最後のシーンはとてもはかない

仮の家族は司法の手で解散となり、月日は流れ、
実の父ではないオサムの元に、ショウタが遊びに来る。

1日だけの2人の時間。2人で布団に入っての会話。

ショウタ「ぼくを置いて逃げようとしたの?」
オサム「逃げようとした」
オサム「・・・お父さん、おじさんに戻るよ」
ショウタ「・・・うん」

バス停にて
ショウタ「わざと捕まった。ボク、わざと捕まったんだ」
オサム「・・・そうか」
走り去るバスの中、見送る父を見まいとする息子。
しばらくして振り返り「おとうさん」と口を動かす。
ーー
自分を連れて行ってくれた場所で遊ぶゆり。オサムが来た場所を見る。


近づきたいけど、近づいちゃいけないような、
離れたいけど、離れたくないような、
そして相手の幸せを気づかうような、
言葉にできない感情が胸を突く。
ここだけでこの映画がある意味があるような気がする。

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