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#blacklivesmatterで思うこと

コロナに始まり、日本政府の無能さが露呈し、黒川検事長の件など政府や日本に蔓延る膿が(根深いけど)いよいよ明るみに、外に出せるかもしれないという論調になってきた。

自粛が明けてもコロナが収まらない中で、医療従事者に対して感謝を、とブルーインパルス6機の曲芸は批判が集まった。今それやんのかい!と。
擁護側の意見も分かるけど。

自粛によってより加速したSNS上の議論。意思表示。意見。批判。
ツイッターやインスタのストーリーなどで様々なトピック―それもコロナ渦中における激動の―に対して、個人の意見・意思表明・批判などがあふれ出ている。

みんな正しいよ。
正しいけど、僕らに一体何ができるっていうんだ?
何もできないよ。
何もできないから、どこかに誰かに自分が持つ「声」を届くように上げるしかない。

そういう流れの中で、アメリカで起きた白人警官によるアフリカ系アメリカ人殺人事件。どれほどアフリカ系アメリカ人の命が軽視され、差別され人権がなかったか、という今までも散々言われてきたことがセンセーショナルに再認識させられた事柄だった。その後、アフリカ系アメリカ人による暴動やデモが起きた。
コロナに対しての対策や政治体制への不満もあり、アフリカ系アメリカ人以外も憤りをSNSアカウントで表明している。有名無名にかかわらず、だ。人権が平等じゃない社会なんておかしいから当たり前だ。
黒人がどういう状況にあるのか
今一体何が起きているのか
おかしい人は誰なのか
目を覚ませ!
知らないなら知れ!とみんないう。
多分みんな舐めてたんじゃないかな?人種差別を。
頭ではわかってても。現代のこのリアルタイムで起こることなのかって。
俺は正直舐めてたと思う。人種差別はなくならないけど少なくなってきてるだろうと思ってたし、今まで知らなかった自分が恥ずかしいし、自分に対して怒りの感情が湧く。
そんな状態。

意思表示や人種差別について投稿した人の中には、僕のように今までの自分に対して感じることもあって、戒めとしてみたいな、懺悔みたいな、そういう要素も少しあるんじゃないかな。
いや、意思表示や今起こっていることに対して思うことや意見を言うのは構わないし、自分ら日本人も抗議しようという考えも分かる。
腐りきってる世の中じゃ、おかしいことがありふれ過ぎちゃって正しく在りたいと思う。

でもだ。
でも、ツイッター開けば黒い画像、インスタ開けば黒い画像、ストーリーでも真っ黒な画像と件のハッシュタグがつけられてる。
いや、正しいよ。間違ってない。
俺には届いたよ。たぶん、他の人にも。
でも、俺に届いたからなんだってのさ。
正義の同調圧力みたいに、一斉にみんなやり始める。
タイムラインが真っ黒な画像で埋め尽くされる。
うん、みんな正しいと思う。
でも、なんか「君はどう思う?」って聞かれながら銃を向けられている気分だよ。
だって、俺に届いたってしょうがないし、俺はすごく不快だったよ。
イナゴみたいに右向け右みたいな、正しいことする人間であれみたいな。
おかしいことを正そうとするのは当たり前だし、人種差別もあってはいけない。
けど、けどさ。
真っ黒な画像を乗っけてハッシュタグ付けることが正義なのか?
それが声を上げるってことなのか?
そんな簡単なことで済むの?
今、本当に声を上げてるのは当事者で、当事者の中でもどうしていいか、どう解決していいかわからないぐらい根深い問題。
それを変えていかないといけない、人種差別がおかしいってことはわかる。し、差別なんてなくなってほしいいよ、そりゃ。

「A君がB君にいじめられ、それを見ているのはC君だった。
この状況でA君を助けることができるのはC君しかいなく、助けなかったらB君に加担することと一緒だ。今世界はそんな状況」
なんかそういう内容のツイッターも流れてきた。
いや、構図はわかるよ。
頭の中ではだれもがそう思うだろうよ。

ムーブメントとしてのハッシュタグの存在ってすごく大きいと思う。
#metooとかね
ちりも積もれば山となんとかっていうしさ。

ただ、アメリカ文化を知らない人たちが、差別を肌で感じたことない人たちが、今回の事件を受けて、知った気になって真っ黒の画像とハッシュタグを上げるって行為は、すごく簡単すぎないか?
声を上げるってそういうことなのか?

そんなこというと「じゃあ、アメリカの人じゃないとアフリカ系アメリカ人のこと知らないと声をあげちゃいけないのか?」と極論持ちの人は反論するだろうね。
差別を受けた人じゃないと正論は言えないのか?と。当事者じゃないと、と。

いや、言いたいのはそういうことじゃない。
その真っ黒の画像とハッシュタグの「声」は一体誰に向けてなんだ?
自分は正しい人間でありたい人間です、という意思表示にしか見えない。
だって当事者のために何ができるっていうんだよ。
みんなが言う「声」って一体誰に向けてなんだ!
みんな「正義」という銃をむやみに発砲し過ぎだ。
差別主義者に届かなかったら、舞台のアメリカに届かなかったら意味ないじゃないか。
例えば、アメリカ大使館に人種差別反対ってデモや座り込みがあるなら俺は参加したい。
そこにはアメリカに声が届くかもしれない可能性があって、世界のニュースになる可能性もあって、届くことを目的としての運動だから。
だから、アフリカ系アメリカ人と縁もゆかりもない我々ができる「声」の上げ方の一つだと思う。
有名人や企業など社会的地位を持っている人・団体が真っ黒な画像とハッシュタグを付けた投稿は、これも「声」になると思う。

でも、それ以外のみんなは誰に向けて人種差別はダメだって意思表示してるんだ?
友達に向けて?
知らない人に向けて?
よくわかってない人に向けて?
誰でもいいから届けって?
「声」が届くことを考えない意思表示ってのは、自分を守る盾にしかならないんじゃないか。
そんなことをすごく思って、なんか最近のSNS上の個人の在り方が気持ち悪くて。
#blacklivesmatterもそのほかの関連のハッシュタグも正しいムーブメントだと思うし 、その行為を批判してるわけじゃない。

真っ黒な画像とハッシュタグを付けて投稿した瞬間に、その人自身の運動がもう終わっちゃうんじゃないか、そんなことを思ってしまう。

(超個人的な意見だけどね)

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