【日記】雨の日のカフェと伸ばした髪

雨が降りしきる平日の昼間。
私はいつも昼食を済ませている、会社の近くのカフェに入った。

お決まりになったサンドイッチとチョコクロワッサンとコーヒーを買う。
今日は雨の日だからか店内に人が多い。
いつもは店の奥の席に座っていたけれど、ちらっと覗いた奥の席は既に埋まっていたので、私はトレイを両手で持ったままサッと店内を一望した。

窓際に近い、往来が良く見える席が一つ空いていた。
本来は2人用の席だ。ただ私はカウンター席よりもソファーに座る方が好きだったから、そこに向かって真っすぐ歩いて行った。

空いている席の、すぐ隣。
女性が一人で座っていた。
五、六十代ほどのやや年配の女性だ。彼女は机に肘をつき、一つだけ注文したであろうアイスティーに口をつけるわけでもなく、物憂げな顔で窓の向こうの往来を眺めていた。

噎せ返るような雨とコーヒーの香りの中、大多数の人間がスマホに目を落としてじっと俯いているというのに、彼女だけが顔を上げ、雨の中歩く人を眺めていた。

私は空いている席に近づいていたはずだったが、いつの間にか彼女のそんな姿に目を奪われていた。
僅かな高揚感、好奇心を抱きつつも、私は席を確保するため、目前まで来た空いている席の机にトレイを置いた。
がしゃんと音を立てた。それに気づいたのか、隣の席の女性はふと私の方を振り返った。
私は彼女と目が合った。


何事もなかったかのように私は席に座り、サンドイッチの包みを開き始めた。
なんだか変にどぎまぎしながら、いつものようにサンドイッチを口に運ぼうとした――その時。

「あなた、髪が真っすぐで綺麗ですねぇ」

先ほど目が合った隣の席の女性から声を掛けられた。
内心ギクッとした。そもそも知らない人から声を掛けられることがほとんどない日常で、ちょっと興味を持った人に今まさに声を掛けられたのだから。

私の髪は長い。だいたい胸のあたりまであるので、ロングヘアーと呼んで差し支えない。伸ばしているというより放っておいたらこの長さになっていたのだけれど。
その髪を突然褒められ、しどろもどろになって「えぇ、あぁ、はい」とか何とか答えた気がする。

「ストレートパーマとか、かけてらっしゃるの?」
「あぁ、いえ……随分前に掛けましたが、今は……」
「まぁ。それなら地毛ってこと?」
「そうですね……いや、でも一回ストレートは掛けてるので、地毛じゃないです」

何だこの胡乱な会話。

答えた通り約一年前に私はストレートパーマをかけているので、厳密に言えば何もしていないということはないのだけれど、正直一年も経ってしまったならパーマなんかどこかにいってしまっているので、パーマをかけているかと言われると微妙なのだ。そのあたりの細かい事情は向こうにとって正直どうでもいいはずで、ただ私は起きた出来事が突然すぎて何だかよく分からない返答をしてしまった。

まぁ、そうなの。というような返事をもらって、私とその女性の会話は終わった。


そして、また何事もなかったかのように雨の音と、店内のジャズの音が静かに騒ぎ始める。


私が昼食を食べ終える頃に、隣の席の彼女は空になったグラスを乗せたトレイを持ち、立ち上がった。
特に私に声を掛けるだとか、目を合わせるだとかそういったことは一切なしに、ただただ彼女は日常の動作的に席を立ち、その場を去っていった。
去り際に私は彼女の方をちらっと見た。そこで初めて気づいたのだが、初老を感じさせる彼女の白髪はウェーブがかった癖を持っていた。
それが何だか私には印象的だった。

最後に残ったコーヒーを啜りながら考える。
彼女は何を思って私の「真っ直ぐな髪」に目を留めたのだろう。

私は昔から、髪の長い綺麗な女の子に憧れがあった。
日本人形のような真っ黒で、真っ直ぐな、それでいて絹のような手触りの髪に随分憧れを抱いていた。
それと同じくらい、私は自分の髪がコンプレックスだった。
黒と呼ぶにはやや明るい茶色の髪。真っ直ぐなようでいて緩い癖があり、絶対に跳ねて欲しくない方向に毎日跳ねる。髪質は剛毛で、毛先の手触りは針金のよう。三つ編みにしたらぴしぴしと零れる短い髪が目立ち三つ編みというよりしめ縄だと言われ、それを長いこと気にしていた。

長い黒髪は憧れであると同時に、私には手に入らないものだった。

けれど大人になって、お金の力でストレートパーマをかけることができた。
真っ直ぐな髪は自分で手に入れられた。そしていつしか、私は自分の髪がさほど嫌いでもなくなっていた。

黒と呼べない茶色はダークブラウンと呼べば格好いいし、私の大好きなコーヒーの色だと思えば気分がいい。
毛が強くて剛毛なのは髪が丈夫な証拠だ。年を取った後でもまぁ残っていることだろう。

去っていった女性のように、私は雨が降る往来に目を向ける。

私は雨が好きだ。特に雨の日のカフェが好きだった。
雨の湿気とコーヒーの香りが絡み合い、店の中はどことなくいつもより甘く沈んだ香りになる。店内の床は外から来た人の靴で濡れていて、誰かが歩くたびにキュっと擦るような音が鳴る。そういう一つひとつが雨の日を際立たせていて、私はそこに居るのが心地よかった。
店内から雨が降る外を眺めるのも好きだ。色とりどりの傘が持ち主の顔を隠し、誰でもない人々は足早に去っていく。上から下へ振り落ちる雨と、右へ行き、左へ行く傘の対比を眺めるのは面白い。

私のような人はさほど珍しくないだろうけれど、それでもきっと多くの人は、雨の日の避難所のようにカフェに駆け込み、疲れ果てて手元のスマホを見つめてしまう。

そんな人が大半の中で、顔を上げて雨を見つめていた年上の彼女を見つけ、私は陸の孤島で友達を見つけたような感覚に陥ってしまったのだった。

あの人は雨を見つめながら何を考えていたのだろう。
あの人は私の真っ直ぐな髪を見て何を思ったのだろう。
あの人はウェーブがかった髪のことをどう感じていたのだろう。

私も頬杖をつき、降り続ける雨を見つめる。
彼女は往来の傘の一つになってしまった。おそらくもう会うことはない。また話したいと思うことはないので、多分もうこれっきりの出会いとなるだろう。

けれど私はなんとなく。
あの雨を見つめていて、私の真っ直ぐな髪を褒めてくれたウェーブがかった髪の女性を忘れられないのだろうな、と思った。



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