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反出生主義について考えること

本稿は、かなり重く、さらに暗い内容となっているため、苦手な方、不快に感じる方はブラウザバックを強く推奨する。

反出生主義とは何か

さて、皆さんは今まで生きてきて、自分は生まれてこなければよかったなどと考えたことはないだろうか。本稿を閲覧してくださる方々は、大方このことを一度は考えたことがあるだろう。

そんなことを考える人たちへの救世主的存在となりうるのが、今回の題にもある反出生主義だ。

反出生主義と聞くと、その字面から優生思想に挙げられるようなやべえ思想なんじゃないかと思うかもしれない。かくいう私も、「生まれくるべきじゃなかった」という漠然な考えを持ってネットサーフィンをしていて一番最初にこの言葉に出会った時は、こういう所感でしかなかった。

然し乍ら実際は特に危ない思想というわけでは決してない。確かに字面はいかにもという感じだが、反出生主義は、敷衍すると人間は幸せや快楽よりも、苦労や苦しみを感じることの方が多いんだったら、生まれてこなけりゃいいんじゃねという考え方である。つまるところ、苦しみを新たに生み出さないことを提案しているのである。実に単純明快だ。

またネット上では反出生主義はごく最近に現れた思想だと勘違いしている人が多い。確かに反出生主義という単語自体と、反出生主義の中の反生殖主義という部分はは最近になって登場したものだが、その根本的な考え自体は紀元前から存在している。実際、紀元前六世紀ごろのメガラのテグオニスは「人間にとって最善なのは初めから生まれないこと、次に善いのは早く死ぬこと」という反出生主義の先駆的な詩を残している。またインド仏教においては、開祖であるガウタマ•シッダールタ(表記揺れあり)は「この世にいることは辛いことだ」という考えを2500年ほど前に提唱し、これを大前提として話が進行している。

誕生の否定と出産の否定

反出生主義と一括りに言っても、それに包含されている考え方は多岐に渡る。大きく分けると「誕生の否定」と「出産の否定」がある。

誕生の否定

まず「誕生の否定」とは、読んで字の如く、人間は快楽よりも苦しみが多いのだから、人間は誕生するべきじゃないのではないかという考え方である。

人間の中には、苦しいことがあったら、その分楽しいことも沢山あるなどと考える輩もいるが、それはただの希望的観測に過ぎない。実際脳科学の視点からも、よく新聞やテレビがやっているように、人間はポジティブな情報よりもネガティブな情報に影響を受けやすく、記憶に残りやすい。また、一度幸福を感じたとしても、その幸福は長くは続かず、すぐに元の状態、乃至はネガティブな状態に戻ってしまう。人間はデフォルトで、苦しみを感じる生き物なのである。

このようなことから、人間は誕生するべきではなかったと考えるのが「誕生の否定」である。

出産の否定

一方で、「出産の否定」とは、今までに生まれてきた人たちが感じてきた苦しみを、これから生まれてくる人たちに感じてほしくないという考え方から生まれたものである。

この考えは先述した20世紀に擡頭してきた反生殖主義とも結びつけられる。これは禁欲が一般的な避妊の方法だった中で、避妊具が簡単に手に入るものとなったことが一つの要因として挙げられる。もう一つはウルバヌス8世によるガリレオの地動説提唱への対応についての謝罪などにも挙げられるように、宗教の力が弱まったことに起因していると考えられる。

昨今の反出生主義

SDGsなどが意識高い系の人たちによって盛んに叫ばれるようになった昨今、この反出生主義は再び脚光を浴びている。彼等曰く人間は、環境に悪い温室効果ガスの排出などに代表される各種汚染、森林伐採、動物の濫獲などをしており、地球の癌でしかないから、新しく生まれてくるべきではないとのことだ。まあそのことは肯定も否定もしないが。

また、2006年には南アフリカの哲学者、デイヴィッド・ベネターが誕生害悪論を提唱した。これは誕生するということは、人間にとって常に害であり、人類は生殖をやめて段階的に絶滅するべきという論だそうだ。

ともあれこの反出生主義という考え方は、見方を変えればHomo Sapiensという現在地球上で大繁栄している種を絶滅させうる考えであることに変わりはない。しかし結局形あるものはいつかは壊れるものだ。6600万年前まで大繁栄していた恐竜だって、今のメキシコのユカタン半島近くに落ちたチクシュルーブ小惑星によって、滅んだとされている(諸説あり)。人間だって、結局は死ぬし、なんの価値もない。もしこの世界に生を受けたとしても、ほとんどの人間は特になんの功績もなく死んでいく。これが世界だ。

感想

正直、現在私は子作りをする気はさらさらない。反出生主義におけるいわゆる「出産の否定」である。私や周りの人間が生まれてきたのには深い意味はなく、ただ先祖の生殖本能の結果としか言えないが、その憎たらしくさえも思える本能の所為で多くの人間は苦しい思いをすることを強いられている。私はこの苦悩を次世代に受け継いでいくことが非倫理的だと考える。ならここでそれを断ち切ろうではないか。私のような考えを持つ人が増えたら、人間は減って、世界は崩壊するだろう。だがそれは、短期的な目で見れば原子力発電所の暴発などのデメリットもあろうが、長期的に考えれば、他の生物にとってメリットの方が圧倒的に多い。経済学には自分によりメリットのあることをしたら、結果的には世の中にメリットになるという考え方があるし、実際それで世界は動いている。

一方の「誕生の否定」もある程度賛成できる。「生きていたらなんか良い事あるよ」と希望的観測を羅列し、自身がこの世腐りきった世に生を受け苦労していることを紛らわすという、取るに足らない人生を謳歌している人間もごまんといるが、そんなことをするくらいなら誕生さえしなければどれほど合理的であっただろう。確かに、今はもうこの世に生を受けている状態のため、「誕生の否定」などという議論は無駄でしかない。しかし、今からそれを実行することは理論上可能だ。人間がこのままのうのうと生きているくらいなら、今すぐにでも集団自決したら、先進国が躍起になってお金をドブに捨てている「SDGs」とやらの全ての問題を解決できる。また、人々が碌な幸福を感じ得ないまま何年も生き続けて死にゆくことになるんだったら、今すぐにでも死んだほうが、これからの艱難辛苦を耐えなければならない人生より幾らかはマシだろう。そもそも、狩猟生活をしていた数万年前、数十万年前から人間の脳はほぼ変化していない。人間の体は細菌などとは違って、現代社会を生きられるように進化していないのだ。

忌憚のない意見を言わせてもらうと、私は人生100年時代などという馬鹿げた考え方には反吐が出る。これを提唱したリンダ・グラットンには申し訳ないが、私は「2007年以降に生まれた子どもの半数以上は100年以上生きる」という予想の、100年生きない側の行くことになろう。なぜなら、私にはこれから体験しなければならない数々の辛酸を舐めるつもりはないし、舐めるメンタルも生憎持ち合わせていないからだ。そもそも、ストレスの9割を占めるとも言われる人間関係の構築において、私の性格は些か不利な点が有り過ぎる。結婚なんてまた夢の夢、付き合うことすら難しいという、クラスメートからの辛辣な意見は強ち間違っていないだろう。そこで、私の今後の目標は人間の自然寿命である38歳以下で死ぬことだ。いまや医療の進歩によって、今や122歳まで生きられる人が出てきたが、そんなものを用いてまで、「本来の余命から次に同じ十干十二支が回ってくる時までは生きていたい」などという人間の思考には本当に辟易する。そんな老害野郎は今すぐ消えてしまえ、という思考さえ覚える。生まれてしまったのなら、生まれてきたということを肯定できるようになりたいと考えてはいるし、私を養育するために死ぬ気で阿堵物を稼いでいる親には申し訳ないが、有り体に言うと今すぐにでも死んでも悔いはない。別に生きていたとしても、私はこの世界に何の爪痕も残せやしないし、私が存在せずとも何の問題もないのだから。

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