「エル」 #秋ピリカ応募
秋の月は、私には少しかなしすぎた。
夜風は冷たく、私と犬のエルは、月の光の下をとぼとぼと歩いていた。
「エル、寒くない?大丈夫?」
声をそっとかけると、道の端で匂い嗅ぎをしていたエルが、ちらっと目だけ動かして私を見た。
「おしっこ、出ないかなあ」
独り言のように小声で呟いて、私はリードを持つ手にきゅっと力を込めた。おしっこ、出ないね。思わずため息をつきそうになって、はっと押しとどめると、私はエルのそばにしゃがんで、にっこりと笑って頭をゆっくりと撫でた。温かくて柔らかなエルの頭。エルの大きな両耳が、かすかに後ろに倒れた。
「もう帰ろうか、寒いよね」
よいしょ、と、エルを抱え上げた。中型の牧羊犬のエルをひとりで抱っこするのはとても大変だ。でも、両腕に感じるエルの体は、昨日よりまた少し軽くなった気がした。
ドッグカートにエルを乗せ、ブレーキを外してそろそろと動きだす。冷たい夜風が頬を撫で、私は空を仰いだ。
「エル、ほら、月がきれいだよ。きれいだねえ、ね、エル」
エルは顔を伏せて、静かにカートの中にうずくまっていた。月の光は遠くて、せつなくて、それが私とエルの、最後の散歩になった。
「おはよう、エル」
私はエルの写真に微笑んだ。お気に入りの写真は凛々しくて、ふさふさの美しい毛並みが輝いて見えた。エルはとても賢くて、ことばもよく理解していた。大好き、と言うと滅茶苦茶嬉しそうな顔をして、くるくる回ってはしゃいでいた。会いたいなあ、エル。会いたいよ。
その日の夕方、私はエルのアルバムを何冊も引っ張りだし、写真を眺めた。そのなかに、びりびりに千切れた紙の山の真ん中で、満足そうな笑顔のエルがいた。
エルは紙を千切るのが好きだった。前足で紙を押さえて、口で、びりびりに細かく千切っていくのだ。カレンダーやチラシ、ティッシュペーパーまで、それは器用に細かく千切った。
「うわあ、エル!上手!上手だねー!」
と、手を叩いて褒めようものなら、満面得意顔になって、更に小さく千切ってゆくのだった。
写真の中でエルは、にこにこしていた。隣に私も写っているのもあって、私もエルに負けないくらい笑顔だった。ふふ、と私は微笑んだ。
アルバムを本棚に仕舞おうと立ち上がり、壁に掛けたカレンダーが、替えられていないのに目を留めた。
私はカレンダーに手を添え、一枚ゆっくりと切り離した。静かな部屋に、ぴりりと音が響いた。
折り畳んで、資源ごみの袋に入れようとした私は、その手を止めた。
「エル、ね、やっちゃおうか?」
大きく息を吸い込み、私はカレンダーの紙を引き裂いた。リビングの床にぺたりと座り、両手で細かく千切ってゆく。負けないぞ、と声が出る。
「負けないぞ、エル。見てて、見ててね。エル、見ててね」
私の膝の上に、千切れた紙が雪のように次々と舞い落ちた。エル、と何度も私は、名前を呼んでいた。
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