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車窓〈掌編小説〉 #春ピリカ応募

 よく晴れた五月の朝、電車はいつもより空いていた。ゴールデンウィークの只中だ。私は、まだ新しい高校の制服を着て電車に乗っていた。
 電車の窓はところどころ開いていて、天井に取り付けられた扇風機が緩い風を送っていた。田舎町を走るこの電車にはエアコンがない。今日は朝から少し暑く、扇風機が数少ない乗客のために回っているのだ。
 いやになっちゃうなあ、と私は呟いた。あ、声に出ちゃった。周りに視線を走らせたけれど、乗客は誰もこちらを見ていなかった。
 ほっとして、私は膝の上で両手を開いて伸ばした。きれいな手だなと、自分でも思う。白くて細くて、爪だって可愛い桜色だ。でも、ただひとつ。いや、ふたつ。両手の小指が短い。第二関節がぷっくりと丸く膨れて、指の長さも縮こまったように短めだ。生まれつき、こうなのだ。そのせいか、少し力が弱くて、ピアノを弾くときには短さもあってちょっと不便だ。でも、たいしたことじゃない。小指がすらっとしていたら、もっときれいな手だったのになと思うけれど。
 
 私は俯いて、いやになっちゃうなと、今度は心の中で呟いた。気持ちのいい休日だというのに、今日は部活だ。昨日も部活だ。高校に入って合唱部に入った。とても熱心な部活で、ろくに休みもない。歌うのは好きだ。でも、たまには休みたい。そう思ったっていいよね、風薫る五月なんだもの。
 ふいに、前髪がぶわっと風に吹かれた。正面の窓が開いていて、強い風が吹き込んだのだ。おでこ丸出しだ。うわっと前髪を押さえて、私は正面を向いた。
 いつの間にか、正面の席にはおばあさんが座っていた。おばあさんは、目が合うと微笑んだ。誰かに似ていた。細面の顔、垂れた目。ああ、母方のおばあちゃんかな。でも、似ているけれど別人だ。
 おばあさんは微笑んで、私を手招きした。私は戸惑いながらも席を立ち、歩いて行った。
 おばあさんは、自分の隣に座るよう目で促した。座ると、膝の上にまっすぐ指を伸ばして置かれた、おばあさんの手が目に入った。皺やしみのある、お年寄りの手だ。でも、あれ? 同じだ。同じなのだ、小指が私と。
 じっと指を見つめる私に、おばあさんは、ふふと小さく笑った。そして、こつん、と隣の私の小指に、おばあさんの小指をくっつけた。
 首筋に、窓から涼しい風が吹きつけた。振り返ると、車窓には新緑の渓谷が広がっていた。電車は、川の上の鉄橋を渡っていた。
 ずっと下にある川面はきらきらと光り、気持ちのいい風が車内に満ちた。
「もう一度、ここが見たかったのよ」
 おばあさんが、ぽつりと言った。おばあさんの両手は窓枠にかけられ、私とそっくりな小指だけ、窓枠に届いていなかった。私も、窓枠に手をかけた。私の小指も、窓枠に届かなかった。
 風が強く吹き込み、私は思わず両目をつぶった。開いたとき、もう、おばあさんはいなかった。川面を飛ぶ燕が、遠く遠く、小さく見えていた。
〈本文1194文字〉


 
 

ピリカグランプリ、あちこちで応募されている方を見ましたので、私も参加してみよう!と、初参加です。

高校のときに乗っていたローカル私鉄と、お気に入りの車窓風景を舞台に書いてみました。小指が短いのは私と一緒です。

よろしくお願いします。

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