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春の終わり、夏の始まり【完結】

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#恋愛小説が好き

春の終わり、夏の始まり 8

1月末。 美咲が友人宅に身を寄せてからひと月が経つ。 唯史は最終的な話し合いのため、彼女と会うことにした。 その日の朝、唯史は鏡の前で何度も深呼吸を繰り返し、心の準備を整えた。 わかっている。 感情を抑え、冷静に話を進めるだけだ。 唯史が美咲と待ち合わせたのは、街の片隅にある小さなカフェだった。 店内には穏やかな音楽が流れ、小春の柔らかい日差しが窓から差し込んでいる。 唯史はカフェの一角にある静かな席を選び、美咲が来るのを待った。 ほどなく、美咲が到着した。 「久しぶ

春の終わり、夏の始まり 9

美咲との離婚後、唯史の日々は変わり果てた。 情緒がきわめて不安定になり、些細なことで落ち込むことが増えた。 夜な夜な睡眠は乱れ、質の良い眠りからは遠ざかっている。 深夜に目が覚めると、そのまま何時間も天井を見つめることが増えていた。 寝返りをうつたびに、唯史の心と体は安息を求めていたが、心の奥底に渦巻く感情がそれを許さない。 この睡眠不足は、日中の仕事にも影響を及ぼし始めている。 勤務中にあくびが絶えず、会議中にはうとうとしてしまうこともあった。 「離婚してからあいつは

春の終わり、夏の始まり 11

同窓会、当日。 12時に羽田空港を発った漆黒のスターフライヤーの機体は、定刻通り関西国際空港に到着した。 関西空港のターミナルに足を踏み入れると、即座に懐かしい匂いと音が唯史を包み込んだ。 有名な大阪土産の豚まんの匂い、そして関西ならではの勢いのある大阪弁。 故郷に帰ってきたという実感とともに、唯史の心の中には安堵感が広がっていった。 関西空港駅から、唯史は電車に乗った。 窓の外は、南大阪の田園風景が広がっている。 田植え前の田んぼからは、春先の土の匂いが漂ってくるように

春の終わり、夏の始まり 12

同窓会は、地元の居酒屋で行われた。 入り口の引戸には「本日貸し切り」と書かれた札がかけられている。 カラカラと軽い音を立てて引戸を開けると、唯史を包み込んだのは暖かな照明と賑やかな声の波だった。 中学卒業以来、15年ぶりに見る、懐かしい顔ぶれ。 彼らは唯史の姿を見つけると、いっせいに歓声を上げた。 「唯史やん!めっちゃ久しぶりやなぁ!」 大学進学とともに東京に居を移した唯史は、中学時代の同級生と顔を合わせる機会がほとんどなかったのだ。 同級生たちは唯史を囲み、昔話に花を

春の終わり、夏の始まり 13

遅れてやってきた参加者も増え、同窓会はさらに盛り上がっていた。 あちこちで交わされる昔話、そして近況報告。 少々酔いを覚えた唯史は、義之を誘って居酒屋の裏手にある河川敷へと移動した。 春の夜風が二人の頬を優しく撫で、遠く関空の誘導灯が見える。 上空には無数の星がきらめき、喧騒を離れた穏やかな時が流れていた。 「ここは変わらんな」 と唯史がつぶやくと、義之は、 「そやな。でも人は変わる。唯史、その顔色の悪さとガリガリに痩せた体、俺が気づいてないと思ってるんか?いったい何があ

春の終わり、夏の始まり 14

同窓会が終わった後、2次会へと流れる者も多かったが、義之はそのまま帰宅した。 義之は、祖父から譲り受けた平屋一戸建てに住んでいる。 畳敷きに寝転がり、天井を見ながら、義之は唯史のことを考えていた。 「何があった、唯史……」 久しぶりに見る親友の姿は、中学時代から大きくかけ離れていた。 いや、見た目はそれほど変わっていないのかもしれない。 他の同級生は、唯史の変化に気づいていない様子であったが、義之は一目でわかった。 唯史はもともと、色白の美少年であった。 だが今の彼は、

春の終わり、夏の始まり 21

6月に入った、最初の週末。 唯史は義之の自宅へと移り住んだ。 唯史の荷物は、それほど多くはなく、衣類少々と愛用のノートパソコンのみ。 これまでの生活で多くの物を手放してきたことを物語るように、その荷物は小さなスーツケースに収まっていた。 義之の自宅は、祖父から譲り受けた平屋一戸建てである。 唯史のために用意された部屋は和室で、壁際には座卓と座椅子が置かれている。 部屋の隅には、洋服をかけるためのハンガーラックも用意されていた。 「必要なものがあったら、また買いに行こう。

春の終わり、夏の始まり 22

6月第1週の末、唯史と義之は近場の公園に出かけた。 広々とした敷地は自然が豊かで、池や遊歩道、ベンチが整備されている。 あいにくの曇り空であったが、時折風が吹くと木の葉がさわさわと音をたてていた。 花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、歩いているだけで心が癒されるような雰囲気だ。 まず二人は、人気の少ない遊歩道を歩くことにした。 唯史は先日借り受けたカメラを、義之も愛用のフルサイズカメラを首からかけている。 「とりあえず、好きなように撮ってみたらいいよ。要はモニター見ながらシ