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春の終わり、夏の始まり【完結】

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note創作大賞2024参加小説です。
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#創作BL

春の終わり、夏の始まり 1

晩秋の雨が窓を叩く音が、夜の静寂を破る。 唯史はリビングのソファに座りながら、ぼんやりと外を眺めていた。 最近、美咲の行動に変化が見え始めていた。 唯史が美咲と結婚したのは3年前、お互い26歳の頃である。 結婚当初の美咲はいつも明るく、仕事の話も積極的にしていたが、ここ数週間は様子が一変していた。 唯史が「今日はどうだった?」と尋ねても、「忙しかった」という一言しか返ってこない。 さらに詳しく聞こうとしても「特に何もないわ」と話をそらされてしまう。 美咲は広告代理店で仕

春の終わり、夏の始まり 13

遅れてやってきた参加者も増え、同窓会はさらに盛り上がっていた。 あちこちで交わされる昔話、そして近況報告。 少々酔いを覚えた唯史は、義之を誘って居酒屋の裏手にある河川敷へと移動した。 春の夜風が二人の頬を優しく撫で、遠く関空の誘導灯が見える。 上空には無数の星がきらめき、喧騒を離れた穏やかな時が流れていた。 「ここは変わらんな」 と唯史がつぶやくと、義之は、 「そやな。でも人は変わる。唯史、その顔色の悪さとガリガリに痩せた体、俺が気づいてないと思ってるんか?いったい何があ

春の終わり、夏の始まり 14

同窓会が終わった後、2次会へと流れる者も多かったが、義之はそのまま帰宅した。 義之は、祖父から譲り受けた平屋一戸建てに住んでいる。 畳敷きに寝転がり、天井を見ながら、義之は唯史のことを考えていた。 「何があった、唯史……」 久しぶりに見る親友の姿は、中学時代から大きくかけ離れていた。 いや、見た目はそれほど変わっていないのかもしれない。 他の同級生は、唯史の変化に気づいていない様子であったが、義之は一目でわかった。 唯史はもともと、色白の美少年であった。 だが今の彼は、

春の終わり、夏の始まり 15

唯史も2次会には参加せず、まっすぐ実家に戻った。 母の佳代子が、客間に布団を敷いてくれている。 唯史はゆっくりと布団に身を横たえながら、義之からの提案である「帰郷」について、深く考えていた。 目を閉じ、自分の現在の状況を冷静に見つめる。 離婚してからの心の空洞、都会で感じる孤独感。 自ら断ち切った人間関係、職場でのプレッシャー…… これらの要素が積み重なり、唯史の心身は明らかに疲れ切っていた。 「義之が言うように、いっそ何もかも投げだして、こっちに帰るのも手かもしれない」

春の終わり、夏の始まり 16

4月の終わり、唯史はこれまで勤めていた会社に退職届を提出した。 その決意は固く、新しい人生を歩むためには、今の環境から離れることが必要だと、強く感じていたからだ。 しかし、上司は唯史の能力とこれまでの貢献を高く評価しており、また状況の変化も理解していたため、退職ではなく大阪支社への異動を提案した。 唯史もそれなら、と異動に同意し、ゴールデンウィークを利用して住んでいたマンションを引き払うことにした。 とりあえず実家に身を寄せることにし、家財道具などはすべて処分することに決

春の終わり、夏の始まり 17

東京での生活に別れを告げた唯史は、南大阪の実家に戻った。 新たな勤務地でる大阪支社への通勤は実家からでも十分可能で、唯史は両親の温かい支えを受けながら、少しずつ新しい環境への適応を図っていった。 大阪支社への仕事にも徐々に慣れ、食事もきちんと摂るようになった。 以前よりは健康的な生活を送ってはいるが、離婚のダメージは未だ唯史の心に影を落としている。 美咲の不倫・離婚による自己否定のトラウマは大きく、なかなか抜け出せそうにはない。 そんな中、かつて同窓会を行った居酒屋で、唯

春の終わり、夏の始まり 18

その日の、夜。 義之は唯史が本格的に帰郷した喜びにひたっていたが、内心は複雑なものがあった。 中学時代、義之にとって唯史はただの友達ではなかった。 あのクラス写真撮影の日、桜の花びらが唯史の黒髪に舞い落ちた瞬間、義之の心は強く動かされた。 その美しい光景は、今も義之の記憶に鮮明に残っている。 中学3年生の夏が訪れる頃、唯史への想いはさらに強くなっていた。 唯史のちょっとした表情、仕草、セリフ、すべてが義之の心を揺さぶった。 だが義之は、恋愛というものを理解していなかった。

春の終わり、夏の始まり 19

結論を出した義之の行動は早かった。 翌日は平日であったが、「急で悪いけど話がある」と唯史にメッセージを送信した。 ほどなく唯史から「OK」との返事があり、唯史の勤務が終わった後、自宅近くのカフェで落ち合うことに決めた。 先に到着していた唯史に合わせ、義之もアイスコーヒーを注文する。 5月中旬、そろそろ冷たい飲み物が欲しい季節だ。 運ばれてきたアイスコーヒーを一口飲んで、義之は切り出した。 「唯史、前に実家出て部屋見つける、て言うてたやん?」 「うん、いつまでも実家の世話に

春の終わり、夏の始まり 20

義之から同居の提案を受けた夜。 唯史は部屋の灯りを落とし、窓際に座って月明かりを眺めながら中学3年生の頃の自分を思い返していた。 窓から柔らかな光が部屋に差し込み、唯史の記憶の中にも淡い光を投げかけていた。 あの頃の唯史は、その整った容姿から常に注目され、それが重荷になっていた。 同級生たちはその見た目を称賛する一方で、内面を理解しようとはせず、表面的な関係に唯史は疎外感を感じていた。 しかし、義之は違っていた。 義之は外見を超えて、唯史の内向的な性格を受け止め、理解して

春の終わり、夏の始まり 21

6月に入った、最初の週末。 唯史は義之の自宅へと移り住んだ。 唯史の荷物は、それほど多くはなく、衣類少々と愛用のノートパソコンのみ。 これまでの生活で多くの物を手放してきたことを物語るように、その荷物は小さなスーツケースに収まっていた。 義之の自宅は、祖父から譲り受けた平屋一戸建てである。 唯史のために用意された部屋は和室で、壁際には座卓と座椅子が置かれている。 部屋の隅には、洋服をかけるためのハンガーラックも用意されていた。 「必要なものがあったら、また買いに行こう。

春の終わり、夏の始まり 22

6月第1週の末、唯史と義之は近場の公園に出かけた。 広々とした敷地は自然が豊かで、池や遊歩道、ベンチが整備されている。 あいにくの曇り空であったが、時折風が吹くと木の葉がさわさわと音をたてていた。 花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、歩いているだけで心が癒されるような雰囲気だ。 まず二人は、人気の少ない遊歩道を歩くことにした。 唯史は先日借り受けたカメラを、義之も愛用のフルサイズカメラを首からかけている。 「とりあえず、好きなように撮ってみたらいいよ。要はモニター見ながらシ

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初めて公園で写真を撮ってから、唯史の写真への興味は深まっていった。 義之はそれを見逃さず、構図の決め方、光のとらえ方、被写体との距離の取り方など、写真の基礎を少しずつ教えた。 梅雨の晴れ間を狙って、唯史と義之はカメラを持って色々な場所を訪れていた。 特に、寺社の静寂と荘厳に魅力を感じた唯史は、その美しさを写真に収めることに夢中になっていた。 「唯史、ここの光がいい感じになってる」 義之が指摘すると、唯史はモニターをのぞき、シャッターを切る。 寺の石段に映る光と影、苔むし

春の終わり、夏の始まり 24

7月第1週、週末の朝。 澄み切った青空が広がり、真夏を思わせる日差しが降り注いでいる。 義之が運転する軽自動車に乗り込んだ唯史は、これから始まる旅への期待で心が高鳴っていた。 「よし、行こか」 旅に必要な荷物を積み込んだ義之は、車のエンジンをかける。 車は軽自動車だが、後部座席を倒し、たくさんの荷物が積めるようになっている。 1泊2日の旅行計画で、まず目指したのは奈良県・十津川の「谷瀬の吊り橋」であった。 まず、和歌山県北部から奈良県に至る京奈和自動車道を走る。 車窓から

春の終わり、夏の始まり 25

16時ごろ、宿泊する旅館の駐車場に到着した。 ここから旅館のバスに乗り、勝浦港の桟橋へと向かうのだ。 旅館は勝浦湾に突き出す半島に建っており、桟橋からは専用の船で移動する。 「さっきまで山の中やったのに、今は海の景色なんやなぁ」 唯史が目を輝かせる。 青い海が広がる中、船はゆっくりと桟橋を離れた。 海の向こうに、「紀の松島」の島々が点在している。 夏の青空、紺碧の海、そして荒々しい島の断崖。 唯史は夢中でカメラのシャッターを切っていた。 その様子に、義之が温かい目を向ける