きみは龍にもどれよというやさしさにペトリコールのたび呪われた


とても印象に残っていて、ことあるごとに思い出しているQuizKnockの伊沢さんのツイート。

本当によく思い出す。

そうあるはず、あるべき、というのは良くないかなとは思うのだけど、やはり祝福や追悼という感情の、その根源というか一番深いところはごく個人的な、それもかなり深層にあって光るものであってほしい。そう思う。


つい最近インターネット上でひとの訃報を伝えることがあって、それに対しての返信に返信をすることがあった。というか、今もその最中にいる。
Aが関わったすべての人の中にある、Aの記憶を集めたらA一人分よりも多いくらいの質量になるんじゃないかと思うときがある。
わたし自身はかなり忘れっぽいというか、脳がかなりやられているので忘れたり、何年も会っていないひとがもう別人のようになってしまったりしていることがままあるのだけど、そうして人の記憶の中をAも、誰も彼も、生きたりいなくなったりしている。記憶はややこしくて、やさしくて強い。


脳といえば、最近「酒と薬で脳がダメになってしまった」という証言(?)がとうとう身内から出てきてウケちゃった。
まあそれは本当なので……本当に、どちらも飲み過ぎてはいけないよ……。


エックスに被服の話を書いたり消したりした。
わたしはわりと公言しているタイプの裸族で、その理由は服を着るのが好きではないからなんだけど……。ここ数年はかんたんなワンピースを着ることで精神の平穏を保っている。
(着るのも好きじゃないし、組み合わせを毎日選ぶのもかなりストレスになるので一枚で吊るしておいてすぐに着られるのはすごく助かる……。夏・冬のワンピースがそれぞれ8枚前後、それと上着だけをハンガーにかけている。)
10年近く前は眼鏡とか腕時計とか靴を本当に着けきれないくらいたくさん持っていて、そういうのを服に合わせたりしていたんだけど。当時はそれが楽しい気がしていたんだけど、向いてなかったのかな。
その頃は髪の毛をとても短くして、そしてとても痩せていた。やりたい格好をやりたくて、少しやっていたんだけど短い髪の毛や体型含めあまりにも似合わなかったのでやめた。
今は真逆の格好をしている。(服の系統がというより、気持ち的に真逆ということ。)
服のことに限らず、あこがれを捨ててもう何も思わなくなるまでかなり時間がかかった。
自分のやりたかった系統の服を着こなす人を見ると、いいなあと思うけど、でも自分に引きつけて考えることは今はもうない。


最近、たまに詩を読んでいます。
ぼんやりと認識していたけど、自由だなー。
自由なんだけど、すらすら書けるということではないのでまだ読むだけです。
文字数にある程度の基準がある短歌の方が、いまはすらすら書けるというのはとても不思議。




きみは龍にもどれよというやさしさにペトリコールのたび呪われた
/湯島はじめ

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