山師と株屋の孫として。「私の履歴書風」の我がルーツ

 日本経済新聞の名物に「私の履歴書」がある。功成り名を遂げた人物が一ヶ月にわたり自伝を連載する(注1)。多くは記者が取材して書いた文章に本人が手を入れたものだろうが、登場者はおしなべて上機嫌だ。
 功も名もない私が登場できる場所ではない。「日(を)経(た)新聞」と言うぐらいだから、古い話がよく似合うね、と嫌味の一つも言ってやりたいところなのだが、あの種の自分語りはいい気分のものではないかと想像される。noteに自分で書くのなら許されるのではないか。「私の履歴書」第一回のつもりで、自分のルーツを書いてみた。暇潰しにしかならないが、読んでくれたら嬉しい。

【私家版・私の履歴書第一回】

            山師と株屋の孫として

 私は1958年5月8日に旭川市で生まれた。父は山崎富士彦、母の名は明美だが母の旧姓も山崎だ。しかし二つの山崎の出自は全く別だ。
 父の三代前の山崎与吾衛門という人物が、江戸時代に越後から松前藩の江差に渡った。与吾衛門は、武士ではない町人だが、いわゆる庄屋で帯刀を許されていた。しかし、当時の殿様に直訴を行って牢に入った。何を訴えたのか、なぜ牢から出られたのか、そもそも本当にあった話なのか。しかし、直訴で越後に居づらくなって蝦夷地に渡るストーリーは楽しい。事実だと思っている。昔の北海道は流れ者の集まりだ。
 江差の商店は息子の山崎虎吉の代にはそれなりに栄えた。

 その息子が、私の父方の祖父・山崎新三郎だ。主な職業は鉱山を掘り歩く「山師」だった。北海道の方々の山を掘り歩いた。時に当たることがあり、室蘭で石炭を掘り当てた後のほんの一時は、自分で船を持って三井や三菱にも石炭を売った。しかし、経営的な才能が無かった。何度かヤマを当てても、短期間で直ぐに失敗している。家族で夜逃げしたことも一度ならずあった。
 新三郎さんは、8男3女、11人の子沢山だった。若い頃にある牧師さんの話を聞き避妊しない主義になった。しかし、貧乏と不運とで、早い時期に多くの子供を失った。学徒動員での戦死、結核など、当時の典型的な死因だ。私が会ったことのある父の兄弟は姉が2人と弟が1人の3人だけだ。
 父、富士彦も20代で結核に罹り療養所で闘病して死にかけた。日に日に衰えて、もうだめかと思っていた時に、医師から「新しい薬があるので試すか」と言われて、自分の葬式代にと思って枕の下に貯めていた仕送りのお金でヒドラジッドという特効薬を使って急回復した。
 新三郎さんは、山を掘り歩く以外にも、「発明して特許を取りたい」と言って単身東京に行って、妻に連れ戻されたことがあった。晩年は、昆布巻きを行商したこともある。最後は旭川でラーメン屋をやった。最後までアイデアとやる気が旺盛だった。「転職」の回数は、父によると20回に近く、私よりも多い。この祖父には是非会いたかったのだが、胃癌のため私が生まれる3か月前に他界した。

 母方の祖父・山崎利之は、樺太で家具屋を営んでいたが、旭川に引き上げて東宝証券という地場の証券会社を創業した。日本最北の証券会社だ。会社は1970年代まで、まあまあ上手く行った。利行さんは、証券会社の社長なのだが、株の相場が下手だった。「堅く、堅く」が口癖で電電債などを地道に売って会社を軌道に乗せた。毎日早起きして体操と散歩で気息を整えて出勤し、夕方には帰宅し、軽い晩酌と食事を済ませて午後9時頃には就寝する。後に、後継者選びを間違えて会社が傾き、これを苦にして自殺したことを考えると、無駄に健康的な暮らし向きだった。
 知り合いを自宅に集めて麻雀をして、軽口を叩くのが彼の息抜きだった。小学校しか出ていない無学な人だったが、この時に発する悪口の才能は天下一品だった。麻雀仲間に「私が泥田の中から抜擢した」と紹介される利之さんの妻・山崎ふさのは、旭川市の大きな農家で開拓功労者だった田中善吉さんの娘だ。当時の女学校を出た教養のある人だったが、この教養は、利之さんとの夫婦仲には邪魔に働いた。
 不仲な夫婦の長女が私の母・明美で、彼女には双子の弟と早逝した妹がいた。

 父方母方どちらも山崎姓で出自は北海道だが、平凡な家系だ。親戚を見回しても特段の成功者や有名人はいない。国立大学の卒業者は私だけだ。
 しかし、祖父の片方が「山師」で、もう片方が「株屋」という血筋を、ファンドマネージャーを職業に選んだ私は大いに気に入っている。北海道という出身地もまあ悪くない。(了)

 自分で読み返してみて、いい気分にはほど遠い。苦心の割に書けていない。日経に文章を書いている、記者さんや編集委員さんは、それなりにプロなのだなと認識する。はい、たいしたものです。
 続きを30回も書くのはとても無理なので止めておく。

(注1)日経の「私の履歴書」には、現役でもOBでも経営者が登場すると、その会社は2年ぐらいのタイムラグをもってROEが低下して株価が下がる「私の履歴書の呪い」というジンクスがある。私の山一證券時代の後輩だった栗田昌孝氏(現在ブルームバーグ社勤務)がかつて岡三証券勤務の頃に出したレポートで話題になった。データも理由も興味深いので、ご興味のある方はネットで調べてみるといい。
 簡単に言うと、日経が話題性があって同時に無難なつもりで会社を選ぶと、その時点が会社が良く見えるピークになりやすくて、その反動が2年後くらいに出るという話なのだ。投資家は「私の履歴書銘柄」に気をつけよう。


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